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アダムカダモン

誕生日の曜日

仏陀の言葉

輪廻転生

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mindbodyspirit.co.uk  スピリチュアリズム 占い

カウンター 


如是我聞:
仏陀は死後の世界について一言もふれていない。悟ると転生しなくなる?
http://www.mikkyo21f.gr.jp/concept.html

キリストの云う神の国は地上の話で、どんな国かは説明なし。(明日にでも来る?)
最後の審判の日までの死後の世界についての説明もない。
教義:神のために人間はある(神の所有物)、予定説(救済される人もあらかじめ決まっている)、
(自分は救済されることになっている人間なのか否か出来るだけ早く知りたがるのが人情?)
三位一体(Trinity)viz.キリストは神−内的信仰のみにて救済−神の国で永遠の生命。

http://erv.scripturetext.com/genesis/1.htm

でも腹式呼吸をするが、結構難しい。 某氏より下記のコツ?を聴取:
頭の上の方から息を吸い込み
(宇宙につながっているという意識)
地球の中心に向かって尻から息をはく(立っているときは足裏からも)
オナラやゲップは出し放題。 腹式呼吸をしているうちに無我の境地に入れる (居眠りの境地ではない)。
心臓で呼吸せよという人もいる。

豊饒の海  三島由紀夫 (新潮 968.09 - 1970.04 掲載) 第3巻 暁の寺

小乗仏教(上座部)

南伝大蔵経本生経(ジャータカ)は バーリ語原典の面影を残す

仏陀入滅100-200年後、小乗二十部に分かれた。

アショカ王治下のマヒンダがセイロンに伝えた分別上座部
(分別上座部三蔵 律蔵 比丘二百五十戒、 比丘尼三百五十戒)が
タイ、ビルマ、カンボジア、ラオス等に伝わった。

南伝上座部 アビダルマ教学(Milinda-panha) ナーガセーナ長老 
“輪廻転生を惹き起す業の本体は゜思゜すなわち意志である”

背筋を伸ばすには、まず尾てい骨のスワリを良くして、
髪の毛数本が上に引っ張られる感覚を。
腹式呼吸はお腹をへこませて口をとがらせ息をはきだし、
鼻から自然に入ってきた空気は臍下丹田に。

我々は本来無我
思がこれに乗って、
貪(とん)、瞋(しん)、邪見、無貪、無瞋、正見の
六業道を以って、 輪廻転生を惹き起す


思はこのように輪廻転生の原因であっても、
主体ではない。
主体はついにわからずじまい。

来世はただ今世の連続であり、
この世と 一つながりでつづいてゆく
終夜の燈明が生なのであった。

三世実有法体恒有説:小乗
濃厚にものうく流れる褐色の川の如く
現在実有過未無体説
大乗
 激流、滝としてこの世界を解する 阿頼耶識


西洋の輪廻転生説:

アジアから来たディオニュソス信仰と
ギリシャ各地の地母神崇拝、農耕儀礼が結びつく。
(源は一つ 冬とともに死に春とともに蘇る、
自然の循環的生命を体現)。

オルペウス教団(紀元前6-7世紀):
密儀化された エントゥシアスモス(憑霊)、
エクスタンス(脱自)
霊的体験-恍惚

アンコールトム

大宮 氷川神社
神主:西角井家


神話: ディオニュソス
ザグレウスはゼウスと地母神の娘ペルセポーネ との間に生れた、
父神から未来の世界統治を委ねられた鍾愛のみどり児だった。
嫉み深いゼウスの后ヘラが地下の巨人ティターンどもを起たしめ、
ティターンどもがザグレウスを虐殺し、 手足をばらばらにして、
煮て啖ってしまう。 心臓だけがヘラよりゼウスに奉られた。
ゼウスはこれをセメレーに与えて、そこから新たに
ディオニュソスとして再生した。
一方、ティターンどもの仕打ち怒ったゼウスは、雷霆を以ってこれを撃ち、
焼かれたティターンの灰から、 のちに人間が生れた。 

かくして人間は、悪しきティターンの性を享ける一方、
彼らが啖ったザグレウスの肉の余香によって、
神的な要素を体内に保つ
のであるから、オルペウス教団は、
エクスタシス(脱自)によってディオニュソスに帰依し、
自己神化によってその聖なる本源に達しなければならぬと説く。
その聖餐の儀軌は、のちにキリスト教の聖餅と葡萄酒にまで及んでいる。
"霊肉の分離 - 輪廻の苦しみ"


ピュタゴラス教団
: 輪廻転生説 & 宇宙呼吸説
(= ミリンダ王の生命観霊魂観、古神道)、
霊魂不滅と輪廻転生を信じた。

ヘラクレイトス - 万物流転の哲学者:
憑霊と脱自は合一し、一者は一切であり、
一切より一者は来り、一者より一切は来る。
時間も空間も超越した領域で、自我は消え去り、
宇宙との合一は楽々として成り、
或る神的体験の裡に、われわれはあらゆるものに成る。
そこでは人間も自然も、鳥も獣も、
お互いの存在の枠を外して 、 融和合一することができた。

修道士トンマーゾカンパネッラ (16/17世紀;伊):
バラモン教徒の輪廻転生説をボテーロより学ぶ。
“コーカサスにおけるソネット”に輪廻説が仄見える。 
“死後の霊魂は、地獄へも煉獄にも天国へも赴かない”と説いた。


ジャンバティスタ ヴィコ(18thC):

ニイチェ永劫回帰の先蹤の位置;

感覚の野蛮-反省の野蛮-文明の野蛮-感覚の野蛮-

“神と被造物とは別個の実体であり、そして、
存在理由と本質は実体に固有であるから、
創造された実体はその本質に関する限りに於いても
神の実体とは別個の異なったものである。”


大蔵経 弥蘭陀王問経
知的優越者 ナーガセーナ長老(紀元前2世紀)

尊者よ、私が那伽犀那と呼びかけますとき、
そのナーガセーナは何者ですか?
* あなたは那伽犀那は何者だと思われるかね?

尊者よ、身体の内部に存し、風(呼吸)として出入りする
生命(霊魂)を、私は那伽犀那であると思います。
* 笛を吹く者の息が、一旦外へ出て再びかえって来ることは
ないのに、しかも彼らが死ぬことがないのは何故か?


尊者よ、何人でも、死後また生れ返りますか?
* ある者は生れ返りますが、ある者は生れ返りませぬ。

それはどういう人々ですか?
*
罪障ある者は生れ返り、
罪障なく清浄なるものは生れ返りませぬ。

尊者は生れ返りなさいますか?
* もし私が死するとき、私の心の中に、生に執着して死すれば、
生れ返りましょうが、 然らざれば生れ返りませぬ。

善哉、尊者よ。 無我であるのに、なぜ輪廻があるのか?
 - アビダルマ教学では“我(アートマン)”を否定。
* 実体としての輪廻の主体はない。
(精巧な唯識論の体系が出来るのは後の世)
時間とは輪廻の生存そのものである。

スウェデンボルグ 前世チェック

ノストラダムス予言解釈 ルーツ君

赴粥飯法 鳩摩羅什くまらじゅ

電子書籍/ビットウエイブックス 命の電話

燈明の譬え:

その夕べの焔、夜更けの焔、
夜のひきあけに近い時刻の焔は、

いずれもまったく同じ焔でもなければ、
そうかと云って別の焔でもなく、

同じ燈明に依存して、
夜もすがら燃え続ける。


マヌの法典

自存神-水-種子-黄金の卵-梵天(ブラフマン)誕生。

輪廻の法(ダルマ)

およそ人の転生を三種に分かって、
一切衆生の肉体を支配する三っツの性のうち、

よろこばしく、寂静で、また清くかがやく感情に充たされた
智(サットヴァ)の性は、
転生して神となり

企業を好み、優柔不断、正しからざる仕事に従事し、
又つねに感覚的享楽に耽る
無智(ラジャス)の性は、
人間に生れかわり


放逸懶惰、無気力、残忍、無信仰、邪悪な生活を営む
タマスの性は畜生に生れ変る と説いていた。

玄奘三蔵法師 虚空蔵 密教法具 アンビリバボ

西遊記 岩手大学HP チベットの死者の書

前世と来世 仏陀-釈迦の化身 役行者

妖怪カルタ 怪談ねっと 水木しげる 錯覚の世界


ブリハダラーヌヤカ ウバニシャド:

まことに善行の人は善となり、悪行の人は悪となり、
浄行によりて浄となり、悪行によりて黒となる。

ゆえに曰く、
人は慾(カーマ)より成る。
慾(カーマ)に従って意向(クラツ)あり、
意向(クラツ)に従って業(カルマ)あり、
業(カルマ)によって輪廻(サムサーラ)あり。


大乗仏教 唯識論
 

唯識。無着(アサンガ)。大乗阿眦達磨経
経、律、論(アビダルマ):

“諸法は識において蔵せられ、識は法におけること亦しかり、
この二は互に因となり、 またつねに互に果となる” 
種子生現行、現行薫種子、種子生種子

同時更互因果

現在一刹那だけが実在

刹那に実有を保証する最後の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、 世界に一切を顕現させている
阿頼耶識は、
時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在する。

仏陀の言葉 死のイメージ オーラの泉

万葉集 古事記 殉情物語(ナシ族 トンパ文字)

ユング/集合的無意識 金子みすず UFO

まんだらや 両部曼荼羅/高野山

六識
眼、耳、鼻、舌、身、意。
末那識 
自我、個人的自我のすべてを含む。
阿頼耶識
存在世界のあらゆる種子を包蔵する識。

生は活動している。阿頼耶識 が動いている。
この識は総報の果体であり、
一切の活動の結果である種子を蔵めているから、
われわれが生きているということは、畢竟、
阿頼耶識 が活動していることに他ならない。

その識は滝のように絶えることなく白い飛沫を散らして流れている。
つねに滝は、目前に見えるが、一瞬一瞬の水は同じではない。
水はたえず相続転起して、流動し、繁吹を上げているのである。
“恒に転ずること暴流のごとし”(ヴァスバンドゥ/世親)

種子燻習。
阿頼耶識自体に、輪廻転生を惹き起す主体も動力も、
二つながら含まれている。
業種子は間接原因(助縁)。

三種の燻習
名言種子、我執種子、有支種子
(欲有、色有、無色有)。

阿頼耶識と染汚法の形ずくる迷界は、
相互に依拠している(悟達への道を閉ざさない為)。
現在の一刹那だけが実有であり、
一刹那の実有を保証する最終の根拠が
阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、
時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在する。

EM EM-X 曼荼羅 遊就館 靖国神社

両部曼荼羅/高野山 エホバの証人;ものみの塔


Chanty Top

ジャータカ(仏陀) 空海(密教) 曼荼羅  新約聖書 旧約聖書

古代エジプト文明 安部清明陰陽師) 出口王仁三郎霊界物語」 凝然大徳(八宗綱要) 新約聖書 旧約聖書 宗教リンク集 「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)

スウェデンボルグ ノストラダムス予言解釈 高千穂の神話と伝説 高千穂 天孫降臨 富士山 地震予知情報 脳内メーカー

江原啓之 スピリチュアリズム 船井幸雄 アンビリバボー(奇跡体験/フジテレビ) ラマナ・マハルシ シオンの議定書

地震予知情報センター 地震予知連絡会 地震予知研究センター(京大) 東海アマ地震予知情報 地震予知総合研究振興会

災害用伝言板-DoCoMo 災害用伝言板-KDDI kinokuniya.com パワーヨーガ 中丸薫 スウェーデンボルグ神学のキーワード

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薬師寺 高田好胤 平田篤胤 本居宣長

行動認知療法(cognitive behavioural psychotherapy)、行動療法認知療法(Behavioral and Cognitive Therapies)

GLA/高橋信次、高橋佳子 世界救世教いずのめ教団 出口王仁三郎/大本教

カルマ(Karma;業)

ダルマ(Dharma;聖法)、アルタ(Alta;実利)、カーマ(Kama;性愛)

生物と無生物のあいだ 福岡 伸一
人間は半年経つと全くの別人になる。骨を構成する分子もミクロの世界で絶え間なく入れ替わっている。

A.R.E講演会要約(1996年4月)
――配本「輪廻する魂」から抜粋――

『生命の連続性に関するエドガー・ケイシーの考察』 ジョン・ヴァン・ウォーケン

 我々は死んだ後どこに行くのかということを理解するためには、肉体的に生まれる前に我々がどこにいたのかということをまず理解する必要がある。

 「エドガー・ケイシーのリーディングは、肉体の死の後も存在する我々の一部は、肉体的に生まれる前にも生きていたと説いています」とジョンは言う。「生命とは連続した体験であるという考え方は、ただ単に『死後の人生』と言うよりはもっとずっと幅の広い概念です。意識の点から見ると、我々は今この瞬間、始まりも終わりもない永遠の世界にいるのです」

 ヴァン・ウォーケンは、魂の創造と個々の意識の目的について詳しく述べている一連のリーディングについて語った。

 「一なる力であるところの神から、多くの個々の意識の点が生まれました。魂としての我々は、進化するために、それぞれが自分自身を知るために、さらには心が全なる神と一体であることを認識し、またそうなれるようにという目的で生命と自由を与えられました。ケイシーによれば、神が仲間を欲しいと望まれたその瞬間に、すべての魂が創造されたということです。これは、地球が誕生するはるか昔に起きたことです。つまり、地球が存在するずっと以前に我々は霊魂としてすでに存在していたことになります」とヴァン・ウォーケンは語った。

 リーディングによれば、個々の霊魂(リーディングではしばしば「実体」と呼ばれる)は、肉体の誕生と同時かあるいは誕生の数日後に肉体に入るということさえある。ヴァン・ウォーケンは、誕生して数日してから肉体に入った、エドガー・ケイシーの妻ガートルードの珍しいケースについて述べた。

 「ガートルードのために取られたリーディングは、今回の人生が彼女にとって困難なものになるだろうと、述べました」とジョンは説明した。「魂には、その人生をいきるかもしくは向こう側の世界にとどまるかを選べる時間的制限があるようです」

 この選択できるという能力が、乳児の突然死、つまりSIDS(乳幼児突然死症候群)に関する質問の答に役立つかもしれない。あるリーディングでケイシーは、子供を亡くした母親に、彼女の赤ちゃんは「創造主のもとに留まること」を選んだのだと語った。

 しかし、これらの条件が、すべての者にとって、憤り、憎しみ、非難といったことのないやり方で用いられることになっていることを知りなさい。それどころか、現状において、それは変更できないものであり、魂がその創造主と一緒にいることを望んだのだ、ということを理解しなさい。
(480-37)

 さらにジョンは、次のように付け加えた。「また別のリーディングで、正確な占星術のチャートを得られるように正確な誕生時刻を質問した女性がいました。肉体の誕生と魂の誕生を2つの別々な出来事ととらえることこの魅力的な考え方は、次のような質問と答を導きました。

質問: 魂は肉体が誕生する前にその中にはいることがありますか?
答え: 初めて肉体的に息を吸うときか、物質次元における循環活動の最初の24時間中に入るのである。このように常に最初の呼吸時に入るとは限らないのだ。魂が肉体に入ろうとする際に何時間もかかることもあれば、入ってくる魂が入れ替わることさえもあるのだ。

質問: 魂が宿るまで、何が肉体を生かしているのですか?
答え: 霊である! なぜならば、本質である霊、その霊の根源は生命、すなわち神だからだ。わかるかな?
(2390-2)

 「このリーディングは、多くの魂たちが誕生に先駆けて母親と父親の近くにやってきていることを示しています。肉体に宿る前に、個々の魂は、今ここで肉体に入ることによって、私の魂の目的を達成できることができるだろうか、と自分自身に尋ねるのです。おの地上において我々が自由意志を持っているのと同じように、そのような魂の能力は向こう側の世界にも存在しているのです。両親だけでなく、物質生活で成し遂げられることの青写真まで選ぶのです」とヴァン・ウォーケンは言う。

 「この世に入ってくることが決まると、『ベール』を通過して、肉体の次元へと魂が移動します。このベールとは、ケイシーが呼ぶところの、あの世とこの世の間の記憶のバリヤーのことです。この世に入ってくるということは、砂時計を通り抜けることにとても似ています。我々は、意識が自由に流れる広大で解放された次元からやってきて、この物質界へと下りてくるのです。そのような移り変わりの時点で、より深い霊的意識が覆い隠されてしまいます。物質生活に入るとき、あるいは生まれるとき、霊的な部分は死んでしまうのです。同様に、肉体的に死ぬということは、霊的世界に誕生するようなものです」

 「我々がここに生まれるとき、三次元のものの見方を発達させ、この次元を自覚しその力学を理解するには時間がかかります。我々が死んでこの世を去るときも、他次元を認識することに没頭する過程があります。リーディングは死の直後に起こる非常に多くの変化を詳細に説明しています。他界の直後にはびっくりするような体験がありますが、この時点においてもまだ魂は人格の自己の部分をたくさん持っています。一時、この『影の自己(シャドーセルフ)』というものが現世とつながっていますが、やがてはより高い意識へと移行し、拡がりを持った魂の自己の一部になります」

 人格の自己がその移行を完了するとき、肉体的な死に際し驚くべき出来事が起こる。それは、潜在意識(夢を見ているとき働く我々の一部)が魂の顕在意識になるということだ。人格の自己は消失するのでも、破壊されるのでもなく、魂のより大きな意識の一面になるのだ。

 徹底した瞑想へのアプローチを指導しているヴァン・ウォーケンによれば、瞑想や祈りを通して、顕在意識が内なる霊的自己ともっと同調できるようになるにつれ、意識は自然と拡大するということだ。

 「瞑想するたびに、我々自身のこの超意識の部分が徐々に顕在意識の上ってくるようになります。瞑想により、個人性、つまり我々の意識を超えた部分を暮らしの中でより大きく顕現させることができると、私は信じています」

 講演の最後に、ヴァン・ウォーケンは次のように語った。

 「自分自身を理解し、自身が聖霊の経路となるよう努めるとき、死という変化をより用意に意識的に切り抜け、?諧謔(?)な気づきを得られるだけでなく、自分は永遠な存在であるという完全なる理解をも得られるのです。生命の連続性とは、単なる希望的観念や信念ではなく、我々がどうしても知っていなければならないことなのです」


エジプトの神秘を解くケイシー・リーディング
――配本「甦るエジプト」から抜粋――

質問: 大ピラミッドの建造が実際に始まり、終わったのはいつですか?
答え: 建造には100年を要した。アラアラート王の治世の時代に、ヘルメスとラーによって着手され完成した。

質問: その時代はBC何年ですか?
答え: 平和の御子(注:イエス)がエジプトに入る前の10,490年から10,390年前のことである。

質問: 空の石棺は何を意味するのでしょうか?
答え: もはや死がないということだ。誤解してはならない。死に対する解釈が容易になるということだ。

質問: スフィンクスの姿は何を意味するのでしょうか?
答え: 国土の位置に最初の変化が生じた時代、アトランティスから人々――あるいは今日の言葉であらわせば「物」たち――が脱出し、ナイル川(当時は「ノール」と呼ばれた)はコンゴ側の大西洋(今日で言う)の注いでいた。サハラ砂漠はその時代、肥沃な土地であり、土地の端には太陽を崇拝する人々の都市が建設されていた。それというのも、太陽光線を使うことで、今日(植物の)成長に必要なものを得ていたからである。また、進歩と退歩、両方に使う能力があったが、今日の我々がそうであるように、大半は退歩した。これらの塚(マウント)の始まりは、その土地にはびこりつつあったものを解釈したものである。(その当時、ほとんどの人は尻尾を持っていた!)。それらの始まりにおいて、これらが残された。

 まだ発見されていない記録のある貯蔵庫、つまり記録保管所(注:ピラミッド)とともに(スフィンクスの)右前足の部分に部屋、または記録の部屋・記録の墓の入り口に到る通路が存在する。ここにはある理解を持たずして入ることはできないだろう。なぜなら、かの聖山で彼らが新しくされるまでは、すなわち、第5根源人種が始まるまでは、番人として残されたものたちを通過することができないであろうから。

 ピラミッドと神秘の中の神秘と呼ばれるもの(スフィンクス)の建造においては、これは今日の言葉で言えば、その土地の物質的な事柄を支配あるいは統治していた執政官、あるいは長官職に就いていた人物に対する記念碑となるべきことが意図された。(しかし)神官の帰還にあわせて(神官はそれまで帰還を禁じられていた)、これらは後に――女王イシス、つまりラーの娘によって――その国の人々に対して、人間や動物あるいは肉の世界と、様々な効果の中で消滅していく変化との関係を示すものとして、その目的を変更された。これらのことは、その国の様々な場所にある多種多様なスフィンクスに色々な形で表されている。例えば、人間とライオンを組み合わせたものであるとか、色々な形の翼、様々な成長段階を示すものがある。これらのものは、今日人間となった者たちが様々な成長段階において引き継いできたところの投射体を表現している。
(5748-6)

質問: 封印された部屋には何があるのか、詳しく教えて下さい。
答え: 霊魂がアトランティス大陸で受肉し始めた頃からのアトランティスの記録と、そこで人類がどのように進化・成長していったかの記録がある。そこには、その大陸を襲った最初の破壊と、そこで起こった変化の様子、さらにはアトランティス人が他の国々で行った活動の記録がある。また、アトランティスの最後の崩壊と秘儀のピラミッドの建設に伴って必要になった国際会議の記録があり、そこには、沈没したアトランティスからの写しである記録を、いつ、誰が、どこで開くことになるのかが記されている。なぜなら、地球の変動に伴って、その(神殿)が再浮上するはずだからだ。
(378-16)

質問: エジプトのスフィンクスのそばにあると言われる記録から、過去の歴史を発掘する人は誰でしょうか?
答え: アトランティスの「一者の法則(Law of One)」の記録に定められていたように、完全なる道を全うする3人の者が現れる。地上での滞在経験において、その霊的経験、先進的経験、肉体的経験をバランスさせてきた人々が見出される時、彼らを通して、求め続けていた人々、待ち望んでいた人々に対して、その存在が長く宣言されてきた真理が地上で保存されてきた仕方を物語るものがはっきり示されるであろう(それは、神がその子らのために保存されてきた精神的・霊的恵の影のごときものである)。そうして彼らがそれらを伝える水路となるであろう。なぜなら、主が言われたように、誰が宣するかを教えるのは私にあらず。ただ、そのような宣言に値する人生を送ってきた者たちが宣するのである。
(3976-15)

 物理的な記録に関しては、これは世の中に蔓延している利己的な動機が断ち切られるまで待つ必要があるだろう。なぜなら、覚えておくがよい。これらの記録は世の中の動きという視点から作られたのであるから。それゆえ、あなたがたの活動は普遍的な形を取らなくてはならない。されど、その普遍性は個々人に適用されるものでなければならない。

 信仰を持て。その能力は自己の内にあることを知るがよい。

 汝らは、あの時代を通じて人類の歩みにあれほど大きな力を示されたあの方の子孫であり、あの方を助ける者たちであったのだ。それゆえにこそ、今一度、汝の影響力、汝の力、汝の愛、汝の進行、汝の能力を、この暗黒の時代における人類のために捧げたまえ。
(2329-3)


古代エジプト文明 代表的な人物

ナルメル王(メネス王) (紀元前3100年頃)…初期王朝時代

 「ナルメル・パレット」に刻まれた、上・下エジプト統一の王でメネス王と同一視されている。
王は上エジプトの出身で、都はメンフィス。

クフ王 (紀元前2550年頃)…古王国時代

 神王理念による中央集権化が確立をし、ギーザ台地に大ピラミッドを建設た有名な王であるが、現存する記録は少ない。 神々を侮蔑的に扱ったとの逸話と巨大ピラミッドの建設から暴君との歴史的評価を受けたが、近年の研究でその評価の見直しがなされている。

ハトシェプスト女王 (紀元前1500年頃)…新王国時代(初期)

 王家の谷の東側にある女王の葬祭殿は古代エジプトの神殿建築の最高傑作。(義)子トトメス3世の摂政から女王となる。雌牛のハトホル女神になぞられているが、雌牛の優しさと併せ持つイシス女神のような勝気の性格から、女王の死後、子トトメス3世は遺跡から女王の姿を削り取った。葬祭殿の様式の変化と同様に女王の治世には神を含めた外来の思想が王朝に採り入れられたと私は推測してる。乳香や没薬などの香料等の貿易を通じ近隣諸国との和平外交をした才女で、調和を意味するオベリスク(「焼き串」からのギリシャ語、古代エジプト語はテケン)が物語る 謎にも興味が惹かれる。女王の死後、トトメス3世が軍事遠征で国土を拡大したことから、両者には外交上の確執があったものと思われる。残存する女王の付け髭をした王像にて男装をしていたといわれているが、王像は髯で表現する決まりがあったので、この説は当らない。雌牛の持つ慈愛に満ちた優しさの像が彼女を如実に語っている。

アクエンアテン王 (在位紀元前1379年〜1362年)…アマルナ時代     [2001.8.24補記]

 アメンヘテプ4世の改宗名。テーベで強力化したアメン神官達に対抗し、遷都地テル・エル・アマルナで王宮内で信仰されていたアテン神に帰依して一神教への宗教改革を行う。アテン神は太陽とその光のような実態が見えない(偶像が無い)のと、直接礼拝は王室のみで、庶民は各戸に奉った神棚の王室の姿を描いた石碑を拝むという、従来の形式を無視した新宗教であった。この為、神官のみならず庶民の信仰信が王から離れ、王の死とともに宗教改革は失敗した。外来の新しい様式の芸術を取り入れ、王家の家族愛を中心とした現実描写の美術が栄えた。

トゥトアンクアメン王(ツタンカーメン王) (在位紀元前1361年〜1352年)…アマルナ時代

 1922年に発掘された王家の谷62号墓の遺宝で最も有名なファラオであるが、実像は未解明である。(義)父はアクエンアテン王といわれ、9歳で即位し、18歳で死んだ。遺宝の多くはカイロ・エジプト博物館の特別室に展示してあるが、王のミイラのある62号墓も一見の価値がある。

ラメセス2世 (在位紀元前1304年〜1237年)…新王国時代(初期)

 ラムセスとも表記されていますが、誕生名が太陽神ラーの子の誕生という意味の「ラー・メス・シス」ですので、私はラメセスと表記しています。

 アブ・シンベル大神殿を始めエジプト国内に最も多くの建造物を残し、67年間の長い治世をした長命の王。 先立った美貌の正妃ネフェルタリの為に王妃の谷の墓やアブ・シンベル小神殿を造った。シリアでヒッタイト王とカデシュの戦いに挑み、その様子と和平調印文がアブ・シンベル神殿内に刻まれている。

クレオパトラ7世 (在位紀元前51年〜30年)…プトレマイオス朝時代

 イシス女神を信奉する才女で、ギリシャ系(マケドニア人)の古代エジプト王朝最後の女王。ローマ帝国のカエサル(シーザー)の力を利用して王朝の継続を願い、カエサルの死後、武将アントニウスと結びローマ軍と戦うがオクタヴィアヌスに敗れ、自殺する。 デンデラのハトホル神殿に姿を残し、美貌といわれるが、実像は見当たらない。

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上座部仏教(小乗仏教)では誕生日の曜日によって、お祈りする仏像が違う?
http://www.ja6ybr.org/~jf6dea/hsrpt/rpt48.htm

色も違う:

月曜日:黄色
火曜日:桃色
水曜日(昼間):緑色
水曜日(夜間):黒色
木曜日:オレンジ色
金曜日:青色
土曜日:紫色
日曜日:赤色

甲斐-恵林寺住職 快川紹喜臨済宗の僧;美濃国土岐氏出身):
「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」

(安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し)
「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」


道元 曹洞宗 只管打座 永平寺-78代住職-宮崎禅師 小塩老師 一生まねすればほんまもん。  

教えは実行する為にある。 平気で生きていることが悟り。 法にかなったのが大自然。

心身一如。 前後裁断。 欲を克服 - まっすぐ - 只管打座

サーンチーの仏教建造物(Buddhist Monuments at Sanchi) 法輪 

 宗教 :
 
世界各国の歴史と文化を知る上で欠かせない知識の一つとして宗教があります。
小室直樹氏の著作を中心にまとめてみました。
 
* 儒教:聖人が天子となって良い政治を行なう(国家,天下の救済)
    君子は義に喩り,小人は利に喩る。
 
    死 :魂は天に昇り,魄は地に潜る。子孫が祭祀を行えば天と地から戻り復活。
   奇蹟:瑞祥“聖人が現れると龍, 鳳凰, 麒麟などの瑞獣が現れる”− 吉兆。
 
 「漢代初期」
    五経(易,書,詩,礼,春秋)+ 論語
    先王(堯,舜,禹王,湯王,文王)= 聖人
    孔子=紹介者,祖述者,伝道者
    論語=訓詁,注疏の学
 
 「宗代:太祖,太宗の宰相趙普」
    宗学=朱子学 ― 科挙の経学の試験問題
    四書(大学,論語,孟子,中庸)
 
  「明:成祖 永楽帝(1360-1424)」
        四書大全, 五経大全 − 科挙の国定教科書
          八股文 − アンチョコ
 
*仏教:‘空’の超論理学 (形式論理学,記号論理学Symbolic logicをも超越;
            実在論そのものを否定) 
         空海:   http://www.mikkyo21f.gr.jp/concept.html
    教相判釈−新作聖典も可
      釈迦−転法論   法前仏後
 
    色即是空、空即是色: 一切が空であるがゆえに、一切が成立している。
      “ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり”
            “露と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪華のことは 夢のまた夢”
 
    因果律 − (縁起、因縁): ‘縁なき衆生は救いがたし’- 輪廻転生
       死後の世界に就いての問いに対し、仏陀は黙して語らず。
       霊界の存在にも言及していない(地獄極楽は中世のお坊さんの創作?)
 
    唯識論:“すべて存在するものは、本当は仮にそう考えておくだけであって、
         実体は一刹那に実在して一刹那に消える”
       人間の身体は6ヵ月経つと完全に細胞が入れ替わる (分子生物学)
 
* キリスト教(啓典宗教): 神前法後
        神のために人間はある :(神の所有物)
 
    予定説 : (救済される人もあらかじめ決まっている)
 
    三位一体(Trinity): キリストは神 (中国語では‘天主’)
               − 内的信仰のみにて救済 − 神の国で永遠の生命
               − 神と隣人への愛(agape)の戒め
      キリストの贖罪死により無条件、無限な愛が発動され原罪は赦された。
       神の国は何処にありどういう所か言及された記録は残っていない。
      あくまでも地上の話で、霊界や魂に就いての言及はない。
 
        聖書(ギリシア語):
       ルター訳 (1522)
       欽定訳(1611)
 
    秘蹟(Sacrament): Catholic; the seven Sacrament:
                          洗礼(Baptism),堅信,聖体,告解,終油,叙階,婚姻
 
    ニケア信条:イエスは完全な人間であり,完全な神である
 
    アリウス派:イエスの神性を否定
 
    コプト教:イエスの神性を強調し人性を軽視
            (ギリシャ正教に異端として弾圧迫害を受けエジプトへ逃れた)
 
    景教(ネストリウス派):唐代に伝わる
    
     十字軍,大航海時代:“異教徒は人間ではない”
             − 皆殺し(Genocide), 掠奪(Plunder)
 
     Protestant: 神に選ばれた者は神の御心に適う法律を作ることが出来る。
          − 近代法
 
      Paul(使徒パウロ): 二分法 (内面の信仰,外面の順法)
               − 資本主義, Democracy, 現代法 の成立
 
*イスラム教 (Islam; the Koran): 宗教の戒律,社会の規範,国家の法律が全く同一。
                        ユダヤ教(Judaism)も同じ。
 
      Muhammad: 最も優れた最後の預言者 (キリストも預言者の一人)
 
      神=Allah: 三位一体の否定;99の特性(天地創造,全知全能,遍在,慈悲-etc.)
                  アッラーには妻も親も子もない
                  アッラー, この生ける神, 永遠の神をおいて他に神はない
 
       予定説:天命“天地間のすべてのことはAllahの意志による。例外はない”
         − (現世限りの予定説)
 
      因果律:“よいこと”(イスラム法が決める)をすれば緑園へ, 悪いことをすれば地
          獄へ堕とす。最後の審判の後, 再び肉体(永遠の命)が与えられる。
               ジハード(聖戦)にて戦死した人は天国へ直行。
 
      六信:Allah, 天使,教典,預言者,来世,天命
 
      教典(四書):the Koran, Torah(モーセ五書), 詩篇(タビデ), the Gospels(福音書)
 
      預言者:アダム, ノア, アブラハム, モーセ, イエス等 及び最後の預言者であるマホメット
          マホメット以前の孔子、釈迦も預言者。
         (キリストは預言者の一人で、神ではなく人であるとしている)
 
    規範:勤行(五行) − 信仰告白, 礼拝, 断食, 喜食, 巡礼
 
* 日本の仏教:
   鑑真和上(678-763):天台宗(法華経を基本の教義とする)
             正しい戒を教える為に来日
       (本来の仏教の根本は釈迦の定めた戒を守り, 迷いを絶ち 悟りを開くこと)
 
   弘法大師空海:密教 眞言宗
         (大日如来を教主, 大日経,金鋼頂経を根本経典として 即身成仏を説く)
 
   伝教大師最澄(767-822):天台の円戎 (実質的に戒律を全廃)
 
   法然上人:浄土宗 (阿弥陀仏にすがる)
 
   親鸞上人:浄土真宗 (阿弥陀仏の他力本願の信心によって成仏することを
                          宗旨とする) − 僧侶の婚姻を認める!
 
   日蓮上人:法華経信仰 (法華経を万能とする)
    − 親鸞日蓮革命により 誰でも自由に宗教家になれるようになった!
                (平安時代までは僧侶は学問修行を積み朝廷から官位を得た)
 
   弥陀の本願:極楽浄土に生まれたいという希望を持つ人はすべて救済したい
 
   本地垂迹説:仏, 菩薩が衆生を救うための一つの手段として, 仮にわが国の
                  神の姿をとって現れる − 神道。
         (それぞれの風土社会に応じて姿を現わす)。
 
   八宗綱要:凝然大徳 (1240-1321) –最高の仏教の解説書(平川彰東大教授)
 
      壇家制度: 徳川幕府 − 政治による宗教支配
 

空海 http://www.mikkyo21f.gr.jp/concept.html
曼荼羅 http://www19.big.or.jp/~mandara/main.html
宗教関連リンク集:http://www.jtvan.co.jp/link/

ユダヤ・イスラエル文化 : http://www.myrtos.co.jp/index.html

コーラン: http://www.isuramu.net/kuruan/

日本聖書協会 : http://www.beble.or.jp/whatsjbs/jbsis.html/

死海文書 : http://www.dma.aoba.sendai.jp/~acchan/DSS/

釈迦如来の生涯 : http://mujintou.lib.net/bukkyo/buddhatop.htm

曹洞宗 : http://www.sotozen-ne.or.jp/index.htm

般若心経 : http://www.geisya.or.jp/~oterasan/okyou/singyou.htm

密教 : http://www.mikkyo21f.gr.jp 出口王仁三郎霊界物語

「トリノの聖骸布

(Shroud of Turin)

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鈴木大拙 東洋哲学

"日本には宗教は無い"とは、”キリスト教のような宗教はなかった”の意。

仏教は宗教であり、哲学であり、生活なり。 おのずからなる。おのずから然る。

鈴木大拙(明治・大正・昭和期の仏教哲学者):

日本では、あまり知られていないが、西洋世界に禅の思想を広くしらしめた、知られざる禅の巨人。 

心理学者ユングは彼の思想に多大な影響を受けている。 鈴木大拙氏の著書「禅仏教入門」ドイツ語訳の序文はユングが書いている。 

アメリカの雑誌「ライフ」が1960年末に行った世論調査では、「世界に現存する最大の哲学者は?」という問いに、圧倒的多数で、ダイセツ・スズキ(鈴木大拙)の名前が上がったという。

物理学者フリッチョフ・カプラ氏も鈴木大拙氏の禅思想に感銘を受けたひとり。 最先端科学である量子力学と東洋思想の共通点に注目し、著書「タオ自然学」を著した。 同書は世界的ベストセラーとなっている。

そしてその「タオ自然学」は、映画『マトリックス』の監督ラリー・ウォシャウスキーの愛読書でもあり、映画のストーリーに反映されている。

映画『マトリックス』のストーリーの根本にある考え、『この世は、仮想現実(幻)である』という思想は、タオ自然学(量子力学)→東洋哲学(禅、ヨーガ、道教)→ユング(心理学)へとつながっている。

つまり禅の『空』の思想、『無我の境地』の世界は、心理学の『集合的無意識』となり、現在の人気映画『マトリックス』へと引き継がれていった。

本名:鈴木貞太郎 (1870-1966・明治3年-昭和41年)
昭和41年7月12日没 96歳 

1870年 金沢市生まれ。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎と親交を結び、加賀の三太郎と称された。

1891年 上京し、東京専門学校文学科、ついで東大に入学。学生時代、鎌倉の臨済宗円覚寺の今北洪川(こうせん)、釈宗演(しやくそうえん)に参禅、大拙の道号を受けた。

1897年に渡米。イリノイ州の出版社オープン・コートに入り哲学者ポール・ケイラスの助手となり、東洋哲学・仏教書の研究、翻訳に従事。「老子道徳経」「大乗起信論」を英訳し,「大乗仏教概論」を英文で出版。

1909年帰国。学習院教授、東大講師を経て、1921年大谷大学教授となり、英文の仏教雑誌「イースタン・ブディスト」を創刊、仏教思想を英文で世界に伝える活動を始める。

1936年には外務省の交換教授としてイギリス語大学で「禅と日本文化」を講じ、その後も世界各地で仏教思想を説いた。

1949年文化勲章受賞。生涯にわたり禅思想を中心にひろく大乗仏教思想を世界に広めることに尽力した。和文約100冊、英文約30冊の著書を刊行、和文著作は『鈴木大拙全集』、『鈴木大拙撰集』に収められている。

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宗教リンク集

空海
ジャータカ(仏陀)
 新約聖書
旧約聖書

百済る話 中国-雑記帳 輪廻転生/暁の寺 ひとりごと(バンコク) バンコク生活情報 CHANTY リンク集(タイ)

東京の某所にて、手相に、運命線が中指に達し、中央にミステリアスクロスインド寺院があり、
小指が長、財運線太陽線がはっきり出ている方とお目にかかり、長時間お話を聞かせて頂く機会を得た。
特に財運線の太さと長さには驚いた (これは並外れた霊感の強さもあらわしている)。

数年前にカンボジアのプノンペン郊外で前世も見える占い師がいると言うので行ってみた。、
村の若者だが
(場違いに)ハンサムで気品があった
後に、前世がカンボジアの国王だったことが証明され、今では王宮にも迎えられて、TV、ラジオ番組にも出ている由。

前世が誰だったか見える人にも世界各地でお目にかかった。占いと同じで、大体同じような事を言われる。
筆者は、5000年前から、世界各地で、何度も生まれ変わって、政治的にも重要な役割を持ったが、
チョンボをしたことも多々あり、 未だに悟りきらずに転生を繰り返している由。 
現世では、信仰心も薄く、超能力もまだ出てきていない?  ドーシテ?

地震予知情報センター 地震予知連絡会 地震予知研究センター(京大) 東海アマ地震予知情報 地震予知総合研究振興会

古代エジプト文明 安部清明陰陽師) 出口王仁三郎霊界物語」 凝然大徳(八宗綱要) 新約聖書 旧約聖書 宗教リンク集 輪廻

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よくわかる新宗教 より抜粋 弓山達也仮想研究所

1995年から1996年にかけて『産経新聞』宗教欄で「よくわかるシリーズ」が連載。私は新宗教部門を担当しました。

第一回/璽光尊事件の不幸な幕開け
 ここに一葉の写真がある。昭和二十二年早春、雪の金沢。そこには六十九連勝記録をもつ元横綱双葉山、そして囲碁の天才呉清源らが写っている。手を合わせ、体を揺らし、深刻な面持ちのなかにもほのかな期待の笑みがうかがえる。ある程度の年代の方ならすぐわかるはずである。
 璽光尊事件――それは敗戦まもない頃、神示に基づき、女性教祖の璽光尊率いる教団・璽宇が世直しを掲げて独自の内閣構想を打ち出し、「元号」を霊寿と改め、天皇や皇族、そしてマッカーサーに自らの「皇居参内」を命じ、やがて金沢に「遷都」し、そこで県警を相手に大立回りを演じた事件である。彼女は金沢で天変地異の預言を喧伝して私造紙幣を発行し、人々に少なからぬ影響を与えていた。そして数十名の警察隊による急襲と乱闘の末、璽光尊をはじめとする教団幹部は身柄を拘束された。璽光尊は精神鑑定により誇大妄想症と診断され釈放。双葉山、続いて呉清源は教団を去った。対馬路人関西学院大学教授は、大がかりな取締りのわりには事件が急速に収拾した背景には、検挙を急ぐ警察、宗教弾圧という形を避けるよう介入・指導したGHQ、双葉山奪還を目指すグループの思惑が複雑に錯綜していると指摘する。だが、いずれにせよ事件の一連の過程で、マスコミによる「璽光尊=狂人「璽宇=邪教」観が世に知れ渡り、この教団は各地を転々とし、今でも現存するものの社会的には葬り去られたといってよいだろう。
 そして、これは璽宇だけの問題でなかった。この事件の翌年に天照皇大神宮教北村さよが「踊る神さま」として世間の耳目を集めた。彼女が求めた、荒廃した人心の浄化のメッセージは取りあげられることなく、ただ歌説法というユニークな布教方法のみが興味本位で報道されていった。この北村さよ、そして手かざしの浄霊やMOAブランドで知られる世界救世教岡田茂吉もやはりマスコミに「第二の璽光尊」と呼ばれた。璽宇に代表されるファナティックな信仰、世間を騒がせる厄介者のイメージは、ある意味で新宗教全体のレッテルとなったといってよい。むろん、これは戦前からの新宗教に対する猛烈な批判キャンペーンの連続ともとらえられるわけだが、少なくとも戦後の新宗教のイメージは、璽光尊から始まった。そしてこの新宗教観は今も変わっていない。いや、璽宇と同じように独自の省庁制や終末預言を特徴とするオウム真理教や霊感・霊視商法の事件もあって、むしろ強まっているともいえよう。
 ――この連載では、日本近代の幕開けから現代に至るまでの新宗教の歴史を今の現状と重ねつつ、わかりやすく解説するものである。そうすることによってオウム真理教という一見特殊に見える教団の登場も、新宗教の流れのなかに位置づけられ、冷静にとらえかえすこともできるのではないだろうかと思う。

第二回/新宗教の源流
 前回、戦後の新宗教には熱狂的な信仰や厄介者のイメージが常につきまとっていると述べた。 特に「新興宗教」という言葉には、正統ではない、危ないといった侮蔑的な響きさえある。だが、新宗教といっても必ずしも
「新」の要素だけではない。新宗教の歴史を注意深くみてると、意外に古い伝統や庶民性に根ざしていることがわかる。
 例えば実行教・丸山教・扶桑教といった教団は富士山への信仰を要とし、教団組織は明治に入ってからだが、その信仰は江戸時代中頃までさかのぼることができる。当時は実際に富士山への登拝はできなくても、富士山を模した塚への礼拝やお籠りがリクリエーションとして盛んに行われていた。御嶽教も木曽御嶽山信仰を基盤としており、山岳宗教から発生した新宗教は少なくない。
 江戸時代末期に創唱された黒住教・天理教・金光教は、教祖の教えの独自性が核となっているが、その背景に庶民信仰との影響関係をみることもできる。黒住宗忠は伊勢参りに熱心だったし、中山みき金光大神はそれぞれ山伏行者石鎚信仰の先達との交流のなかから自ら啓示を受けるようになっている。教団側では教祖の独自性や革新性を強調するばあいが多いが、いずれにせよ、当時の庶民信仰の要素を無視しては教祖の教えは理解できない。
 こう考えると、新宗教、特に「第一次宗教ブーム」と呼ばれた幕末維新期の新宗教は、ある日突然新たな装いで現れたのではなく、こうしたごく普通の庶民の宗教的世界から生れ、組織化されたという見方もできる。教祖も宗教的なエリートではないし、信者もごく普通の人々が中心であった。その意味でこれらの教団に対して新宗教という呼称を用いず、むしろ民衆宗教という用語を好んで使う研究者もいる。教祖にせよ、信者にせよ、自分たちが何か特別なことをしているという意識はどれほどあったのだろうか。むしろ私たちが考えるより、ごく普通の生活感覚で信仰に関わっていたのではないかと想像するが、これなどは新宗教の 「新」とは何かを問い直すこととともに、新宗教研究の今後の課題といえよう。

第三回/国家と新宗教との対決
 前回述べた幕末維新期、つまり第一次宗教ブームの教団が社会にそれなりに定着し始めた明治末から昭和初年。再び第二次宗教ブームともいうべき活発な新宗教の活動が見られる。これには教団の性格からいって三つくらの特徴が指摘できる。
 まず第一に明治後期に生まれて大正期に拡大した大本太霊道(たいれいどう)。この二教団は霊の操作による病気治しや社会への働きかけで注目を集めた。第二にこの大本と天理教の分派であるほんみち。これらは強い終末預言を唱えて世間の耳目を集め、大本は大正十年と昭和十年に、ほんみちは昭和三年と十三年に大規模な取締りを受けている。第三に昭和初年のひとのみち教団(現PL教団)霊友会の大都市における発展があげられる。ひとのみち教団も昭和十一年に取締りを受けている。
 第二次宗教ブームは西欧列強の仲間入りを果した日本が、太平洋戦争に突入しようとした時期でもある。現人神(あらひとがみ)天皇をいただく日本は極めて神権的国家の色彩が強く、旧憲法では「信教の自由」が認められていながらも、国家の論理と合い容れない性格や権威体系を有する教団は、不敬罪や治安維持法を中心に徹底的に取締られた。事実、新宗教のなかには天皇の権威や国家体制を否定する教義を掲げた教団もあったが、内務省のマル秘資料などをみると、宗教者一般の言動が厳しい監視や干渉の対象となっていたのがわかる。こうしてキリスト教や仏教の新興勢力もやはり打撃を加えられた。
 昨年の宗教法人法改正やオウム真理教に対する破防法適応の議論の際に、国家による宗教団体の過度な統制の懸念が宗教界から出されたのは、このような「宗教弾圧」の苦い思い出に起因している。先の教団は太霊道以外はいずれも現在では数十万から数百万信者を誇る大所帯となっている。だが、その草創期は、決して楽なものではなく、この時期は他にも辛酸をなめた教団は多い。教団の中には崩壊したものもあれば、幹部が獄死しているばあいもある。新宗教が再び活発に運動を展開するようになるのは戦争の終結をまたねばならなかった。(12文字×73行)

第四回/都市のなかで
 敗戦は日本にとって大きな打撃であったが、同時にこれは、それまで取締当局の監視と干渉のもとで活動がままならなかった新宗教教団が、満を持して布教に乗り出す好機でもあった。特に、昭和二〇年代、三〇年代には、現在、大教団と呼ばれる教団が急成長を遂げた。
 敗戦直後には、この連載の最初にも述べた璽宇(じう)や天照皇大神宮教が登場するが、そのあとに霊友会、PL教団、生長の家、世界救世教、立正佼成会、創価学会といった教団が続いた。もっともこれらの教団はその起源を戦前に求めることができるが、大きく成長するのは主に戦後である。
 例えば、立正佼成会は主婦層、中小経営者・労働者層を中心に祖先崇拝の実践と「法座」と呼ばれる信仰体験にそくした語り合いの小グループの魅力で進出した。創価学会も家庭集会である「座談会」と折伏(しゃくぶく)という積極的かつ多角的な布教展開で、やはり中小経営者・労働者層に強くアピールした。いずれも法華経を基盤に、貧しさ、病気、家庭不和などの解決といった現世利益(げんぜりやく)を力強く約束して都市部で教勢を伸ばした。
 前回触れたように、霊友会と、戦前はひとのみち教団といったPL教団は、昭和初年に都市部でかなりの信者を集めていた。霊友会は東京でひとのみち教団は大阪で庶民層を中心に現世利益を掲げた布教を成功させていたのである。
 この時期の特徴はやはり都市での運動展開であろう。農村から出てきて都会のかたすみでひっそりと暮らしている、どちらかという豊かではない人々に、こうした教団は個人と家庭の幸せを説いて、彼らの心をとらえた。この時期、第三次宗教ブームの都市での展開は、第一次宗教ブームの教団が農村から始まり、いわば 「村落宗教」の様相さえ呈していたのとも異なるし、天下国家を論じた大本やほんみちとも区別される。
 むろん、こうした新宗教の活動が、日本の敗戦から朝鮮戦争特需をばねに、そして高度経済成長下で進行した都市化と核家族化の流れに照応しているのはいうまでもない。

第五回/社会を写す鏡
 昭和二十年代から三十年代にかけて、霊友会、パーフェクト・リバティ教団、生長の家、世界救世教、立正佼成会、創価学会といった教団が躍進を遂げたことは前回述べた。社会学者の調査によれば、昭和二十年代前半の東京の立正佼成会では、入信理由は病気四八%、貧困一八%、家庭不和一八%。また、昭和三十七年の福岡市の創価学会員では、病気二八%、人に言われて二五%、家族関係一六%、お金一三%となっている。新宗教の入信理由は貧・病・争(人間関係)といわれ、これは当時のまだ貧しかったころの日本の社会状況を反映していた。
 しかし、高度経済成長によって日本が曲がりなりも「豊かな社会」を実現したとき、貧・病・争の解決を掲げて活動をしてきた新宗教の存在基盤は危うくなった。事実、先の教団で過去二十年間教勢を伸ばし続けているところは少なく、多くは横ばいか低迷を余儀なくされている。
 こうしたなか、新しいタイプの教団が急成長した。オウム真理教の麻原彰晃が一時期身を置き、「阿含 (あごん)の星祭り」で知られる阿含宗、手がざしの「真光の業」を重んじる崇教真光(すうきょうまひかり)や世界真光文明教団幸福の科学の大川隆法SF作家の平井和正らに大きな影響を与えた高橋信次のGLAなどがそうした教団である。これらが昭和四十八年のオイルショック以降教勢を拡大させ、霊現象と秘儀や奇跡を重んじるところから、西山茂東洋大学教授は「霊術系新宗教」と呼んでいる。一般には新新宗教、第四次宗教ブームと呼ばれる教団群である。
 このころはノストラダムスの予言、エクソシスト(悪魔祓い師)、超能力など、科学では理解できないもが話題を集めた時期でもあった。第四次宗教ブームは、こうしたいわばオカルト文化を背景にしているとよく指摘される。確かに、崇教真光の青年信者の入信理由は霊界志向二四%、理由なし二三%、病気二二%、家庭の問題七%、終末観六%の順となっている。ここにもそれまでの新宗教にはない新しさがみられ、新宗教が当時の社会的風潮を写し出す鏡のような存在であることがわかるであろう。

第6回/手かざしの系譜
 これまで新宗教教団の成立に従って四つの宗教ブームをみてきた。新宗教というと一つひとつが独立しているかのような響きがあるが、詳しくみていくと影響関係やがあるばあいが少なくない。
 例えば大本とそこから分派した世界救世教。この二つの教団の影響は新宗教の世界では大きい。街頭でみかける手かざしの教団・神慈秀明会もこの系統である。そもそも大本では御手代(みてしろ)と呼ばれるしゃもじをかざす病気治しがあった。大本の布教に専念していた、後の世界救世教教祖の岡田茂吉も、大本では扇を用いたり、また手をかざして病気治しを行っていた。
 この手かざしの浄霊が世界救世教の拡大の原動力となり、この教団から独立して世界真光文明教団を設立した岡田光玉(かうたま)は手かざしを真光の業と呼んだ。茂吉の死後、世界救世教からは十を越える教団が分派したが、先の神慈秀明会をはじめ、茂吉を明主(めいしゅ)と仰いで浄霊を用いる教団は多い。
 同じように大本も影響を与えた教団は十をくだらない。 大本のエリート幹部の浅野和三郎心霊科学研究会を開き、生長の家の教祖の谷口雅春は大本で編集の仕事に携わり、生長の家からは「世界人類が平和でありますように」の標語が有名な白光真宏会の五井昌久が出ている。
 このように世界救世教系の教団群を含めると、神道を基盤にした霊術の実践や研究など、多くの教団が大本の影響を受けているのがわかる。このことは大本の開祖出口なお聖師出口王仁三郎の懐の深さや人間としての幅の広さをも反映しているといえよう。

第七回/分派と影響関係―掴みずらいその実態
 新宗教の分派と影響関係には二つのタイプがある。一つは支部や道場などが本部から組織的に分派するタイプ。もう一つは信者や教師が組織から離れて個人的に活動を始め、結果として新たな教団を興すことになるタイプ。前者の典型は霊友会で、ここからは孝道教団、立正佼成会、妙智会、妙道会などが独立している。
 後者としては天理教系の教団があげられる。もちろん天理教にも組織的な分派は希にあるが、基本的には教会が強い親子関係で結ばれ、本部の聖地でしか行われない秘儀もあり、簡単には分派できない仕組みになっている。だが、時として教祖・中山みきの後を継ぐとして天啓者を自称する信者が組織から離れ、そこに人が集まり、新たな教団ができることがある。朝日神社ほんみちはそうした教団であり、また、ほんみちとその系統の天理三輪講(さんりんこう)、天理神之口明場所(かみのくちあけばしょ)などは、戦前、天皇に代わる天啓者を強く待望したため、いずれも治安維持法違反で関係者が検挙されている。
 戦後、天理神之口明場所からは霊能者を中心とする教団が十以上輩出され、そのなかには芹沢光治良の晩年の小説で重要な役割を果たす、中山みきの言葉を取り次ぐ「川口の伊藤青年」も含まれている。天理教の影響を受けた教団では、みきを教祖と仰いで天理教の用語や儀礼を踏襲することが多く、その意味で前回扱った大本系の特に世界救世教系教団と似ている。
 この他、新宗教のなかではGLA本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)、中山身語正宗(しんごしょうしゅう)、祖神道(そしんどう)といった教団の影響が大きくて系統の教団も多い。だが、研究者としては分派や影響関係については話題が微妙なだけに調査もしずらく、関心はあるものの実態がつかみずらいというのが本音である。

第八回/オカルト志向と新宗教
 筆者は昭和三十八年生まれで、大学生の頃は大相撲の当時の新世代が三十八年生れだったことから「サンパチ組み」とか「新人類」のはしりとかと呼ばれ、最近では「オウム世代」といわれる世代に属する。仕事がらオウム真理教の信者に会うことがあるが、確かに彼らと世代的な共通点を感じる。特に男性のばあい、その共通点はオカルト志向と言い表せよう。
 オウム信者が空中浮揚といった超能力やハルマゲドンの到来を信じてきたことが、どうも理解できないという人は多い。だが筆者らの世代では漫画などの若者文化の影響で、超能力やハルマゲドンといったオカルトの世界には小さい頃から慣れ親しんできた。昭和四十年代後半、永井豪「デビルマン」では人類が滅び去る過程と善と悪との最終戦争がモチーフとされ、つのだじろう「恐怖新聞」「うしろの百太郎」では心霊現象がリアルに描かれていた。学校ではこっくりさんが大流行し、テレビではユリ・ゲラーや同年代の少年のスプーン曲げが話題となり、『ノストラダムスの大予言』『日本沈没』の情報も耳には入っていた。
 同時にこの頃はオイルショックによる高度経済成長の破綻で、将来に対する漠然とした不安を感じとっていたし、公害問題等で科学や産業が必ずしも人間を幸福にするとは限らないということも薄々わかりはじめていた。このようななかでオカルトの世界は現実とは別の「もう一つ世界」だったし、筆者のまわりでも、こうした世界があっても不思議ではないという雰囲気があった。
 昭和五十年代になっても、『ムー』『トワイライトゾーン』『ハロウィン』『マイバースデー』といったオカルト、ホラー、占いなどの専門誌が創刊され、また大友克洋「アキラ」宮崎駿「風の谷のナウシカ」をはじめ人類の破局や超能力を扱った漫画も人気を博し、こうしたオカルト志向は持続されていった。オウムの体験談や脱会信者の手記をみると、このような雑誌や漫画に影響された人が多いことがわかる。オカルト志向は明らかにオウムをはじめとする現代の新宗教の展開の土壌となっている。

第九回 自分探し志向と新宗教
 前回、オウム世代の共通点として、男性のばあいはオカルト志向があると述べた。では女性のばあいはどうであろうか。もし単純化が許されれば、それは自分探し志向といえると筆者は考えている。
 筆者が面談した二十九歳のオウム真理教の女性信者は入信の理由を「人生の虚しさ」と表現していた。特に不幸というわけではないが、まわりは結婚していくし、昔みたいにちやほやされなくなるし、仕事はつまらない。そのようななかで常に何か目標を持ちたいと思ってきたが、それが何だかわからなかったと彼女は話す。そして出会ったのがオウムだった。
 こうした話は何もオウムに限ったことではなく、虚しさ、漠然とした不安、人生の意味を見出だせないといった理由は新宗教の入信動機として決して珍しくない。自分の存在が何だかわからず、本当の自分を追い求め悪戦苦闘する姿がそこには見え隠れしている。
 統計によれば、青少年の約三割が自分が「嫌い」または「やや嫌い」と答え、筆者が教鞭をとる看護専門学校でも、アンケートで 「人間はずるい、きたない」といった否定的な人間観を示す学生が毎年だいたい三割程度いる。
 こうした自分や人間そのものに対するある種の嫌気をバネに、「本当の自分」「もう一人の自分」の探求や潜在能力の開発についての関心が高まってきた。わずか数日間で魅力的になれるという自己啓発セミナー、潜在能力や多重人格に関する書籍の人気、女性誌を中心とした簡単な心理分析とその処方箋の特集、女優のような格好をしてプロの写真家が撮影してくれる変身写真館など、自分探し志向の諸現象はバブル期より目につきはじめ、現在も続いている。
 そもそも宗教はこうした自分探しに応えることを得意としてきた。その中でもオウム真理教をはじめとする最近の新宗教はそれをわかりやすい形で、時には短期間かつ安直な方法で可能にすると約束し、若者の心をとらえてきた。「オウムで救われた」と、今もこの教団を離れえない信者がいる理由の一つはここにある。むろん、その内容が今問われてべきなのはいうまでもないが‥‥。

第一〇回 精神世界ブームの昂まり
 これまで述べたように、オウム真理教登場の背景にはオカルト志向と自分探し志向が潜んでいる。青年層のこうした志向性をひっくるめて何と名付けるか、宗教学の分野でも話題になることが多い。日本のマスコミでは精神世界、アメリカではニューエイジという語が用いられる。島薗進東京大学教授は新霊性運動という用語を提唱するが、ここではニューエイジとよんでおこう。
 オカルトや自分探しも含めて、神秘や精神性を探求する動向は一九六〇年代後半にアメリカでおこった。関連の書籍には精神性の発達」「意識のルネッサンス」「霊的な目覚め」といった言葉がちりばめられ、意識変革を目指している点で共通している。そこには、今の人々の意識や社会のあり方とは全く異なった新たな世紀の到来への待望が感じられる。ニューエイジは特定の組織をもつわけではないが、時代の雰囲気として広く共有されているといみてよいだろう。
 ニューエイジに関する情報は、日本では昭和四十年代後半には一部の青年層の間で知られていた。その後、特に六十一年のシャーリー・マクレーン『アウト・オウ・ア・リム』の翻訳と、そこで紹介されたチャネリング(宇宙意識との交流)の普及が、ニューエイジの大衆化に拍車をかけるきっけとなった。心の時代と呼ばれて二十年近く、バブル期に始まった自分探しブームから数えて約十年、日本でも着実にニューエイジは根づきつつある。
 一方、新宗教ブームといわれて久しいが、実は新宗教教団で信者数を伸ばしているところはそう多くない。大教団では横ばいか下降といったところである。そうすると、青年層の広い意味での宗教的関心は新宗教ではなく、ニューエイジの方に向かっているとみていいかもしれない。宗教教団のようにお布施や修行といった拘束力をもたないニューエイジは、確かに個人主義的な傾向の強い青年層に受け入れられやすい。事実、原宿や渋谷や青山にある、ニューエイジ関連の書籍やグッズを扱う店(ニューエイジショップ)は、休みになるといつも若者でいっぱいである。

第一一回 カルトと新宗教
 個人主義が広がるなかで、その風潮に合致したニューエイジ運動が青年層に浸透し、従って新宗教ブームといっても、教団組織が大きくなっているとは限らないと前回は述べた。だが、新宗教教団のうち、幸福の科学などは、教団の拘束力が比較的弱く、これが青年層にウケている理由とも考えられよう。オウム真理教も、道場に行ってみるとわかるのだが、信徒は来たい時に道場に来て、全員で行う儀礼は少なく、暝想する人、作業する人、ヨーガをする人、皆ばらばらである。こうした点が信徒にとって干渉されない心地よさともなり、事実、うっとうしい人間関係を捨てて出家を選んだ理由ともなっている。
 本来、人と人との密接な関係を基盤とする宗教にあっても、このように個人主義の影響を受けている。考えてみれば宗教に関する情報は巷にあふれ、現代人は特に教団に入らなくても宗教的欲求を満たすことができる。映画や小説を個々人の趣味で選ぶように、宗教も個々人の関心事に縮小されつつある。
 だが、その反面、こうした個人主義的な傾向と相反する宗教的動向も現れている。自分たちだけの価値観を守り、全人格的な関わりを求めるカルトなどがそうである。宗教社会学ではカルトとは世俗からの逃避と神秘体験の性格を有する教団のタイプなのだが、現在、一般には熱狂的な崇拝やこれを行う集団に対して侮蔑的な意味を込めて、この用語は使われている。
 カルトの存在を広く世界に知らしめたのは、チャールズ・マンソン率いるファミリーによる女優シャロン・テートらの惨殺(一九六九年)、南米ガイアナで起きたジム・ジョーンズの人民寺院九一二人の集団自殺(一九七八年)、テキサス州に本部を持つデイビッド・コレシュのブランチ・デヴィディアンの銃撃戦と集団死(一九九三年)、カナダとスイスで起きたリュック・ジュレが創始した太陽寺院教団の集団自殺(一九九四年)など、一連の凄惨な事件である。
 現代宗教は個人の自由な関わりと、カルトのような尖鋭化の二つの方向に分極化している。なぜ相反する動向が同時に起きるのか。次回、この連載のまとめとともに説明していきたい。

第一二回、新宗教の行方
 個人主義的傾向が広く受け入れられていくなか、個々人の自由な関わりを旨とするニューエイジのような運動と、逆に個人の自由を否定し、メンバーを強くつなぎとめるカルトのような運動の二つの相反する方向に、今の宗教動向は分極化している。だが、その背景にはあるのは、絶対的な価値観を失い、個々人がそれぞれの生きる意味や人生の目的を模索していかなかればならないといった、現代社会の価値相対主義という点で共通している。
 価値相対主義の現代では、人は林立する価値観のなかから自分の志向性に合ったものを選択すればいい。ニューエイジはもちろん、今の新宗教が行う、一般書店での書籍販売や、コンサートのようにチケットを購入して講演会を聞きに行くといった信者の自由なかかわりを強調する布教方法は、確かに現代人にとって気楽に宗教に触れる魅力となっている。お金を出せば「宗教」や「生きがい」を買える時代なのである。
 自由に自分の生きる意味や人生の目的を探すのは意義のあることだが、その反面、それは険しい道であり、責任は自分でとらなければならない。そんな大変さから逃れて一つの価値観を信ずることができれば、どんなに楽だろうか。セックスやグルメやファッションなど、若者が自由を謳歌しているのを道徳の衰退とみなし、絶対的な価値観を前面に押し出すことによってカルトは価値相対主義を乗り越えるのだと主張する。新宗教でも、自由に欲望を満たそうとすることを苦の根本ととらえ、強く改心を迫るばあいが多い。
 現代の価値相対主義をめぐって、ニューエイジ的傾向とカルト的傾向の二つの方向が同時進行していることを説明してきた。ニューエイジやカルトというと極端に聞こえるかも知れないが、今の新宗教も、これらの要素は多かれ少なかれ持っている。ニューエイジ、カルト、新宗教の垣根は低く、三者はなだらかに連なりながら現代の宗教動向を形成しているとみてよいだろう。価値相対主義の根本的な解決がないまま、混迷の度合いを深める現代にあって、ニューエイジやカルトを含めて広い意味での新宗教がどのような現れ方をするのか、その動向を見守り続けたいと思う。

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百済る話 中国-雑記帳 輪廻転生/暁の寺 ひとりごと(バンコク) バンコク生活情報 CHANTY リンク集(タイ)

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前頭前野 海馬 新しい神経細胞 fMRI 結晶性知能

心肺蘇生法

JICA 47.事業名
99歳の専門家!草の根技術協力事業・支援型がスタート

生徒と触れ合う昇地博士
6月26日、NGOなどによる技術協力をJICAが支援する「草の根技術協力事業」のうち、中国で初めての「支援型」となる「知的障害者教育施設(特殊学級)の設立支援」の開始記念式典が吉林省長春市で行われ、吉林省障害者連合会、吉林省科学技術庁をはじめ、日中の関係者約50名が参加しました(「支援型」は、3種類の「草の根技術協力事業」のうちの一つで、他に地域提案型とパートナー型がある)。また当日は、本プロジェクトの日本側実施機関である社会福祉法人「しいのみ学園」の園長 昇地三郎博士の白寿(99歳)の誕生日であったため、長春市聾唖学校の生徒らによる歌や踊りが披露されました。

本プロジェクトは、NPO九州アジア記者クラブの提案により、日本の知的障害児教育の草分けである「しいのみ学園」と吉林省にある長春大学との協力により実施するもので、中国における知的障害児の教育向上、特殊学級に対する理解の促進を目指し、2年間の協力期間を通じ、特殊学級の設置や特殊学級教師の育成、知的障害児向けのカリキュラムや教材の作成等を行います。今年9月には、本プロジェクトのモデル校である長春市解放路小学校に中国初の特殊学級を開設し、20名の知的障害児を募集する予定です。

草の根技術協力事業は、NGOや自治体、大学などがこれまでに培ってきた経験や技術を生かして企画した、途上国の地域住民の生活向上に直接裨益すると考えられる協力活動をJICAが支援し、共同で実施する事業です。今回の実施機関である「しいのみ学園」は、半世紀前、昇地三郎博士が、私財を投げ打って創設した日本最初の知的障害児教育施設で、「叱らない教育」「手作り教材を使っての個別教育」など、子どもを最優先にした教育で、日本の障害児教育をリードしてきた機関です。また、カウンターパートである長春大学も中国で初めて様々な障害を持つ若者に門戸を開いた大学として、豊富な経験を有しています。

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レオナルドダビンチアインシュタインエジソン等の天才も
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呼吸法
おなかをへこませて息を吐けば自然と腹式呼吸が出来る。

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ネットワークニュース(岩手大学版)」より引用

Buddhism and Christianity [introduction]

なぜ宗教なのか

ここでキリスト教と仏教のことを書きますが、どうして このテーマなのかという疑問に対しては
まず次のように答えておきます。

私は研究で、お寺や古い日本の建物のことを建築学的に調べたことがありました。またアーチの石積み教会の翻訳本も出しました。それらの仕事において、宗教の知識がある程度必要でした。 奈良の大仏殿は世界最大の木造建築の空間を作っているといいます。 しかし、奈良の大仏と鎌倉大仏の違いは何か、 あるいはキリスト教の歴史とかローマカトリックとギリシャ正教との違いは何かなど日頃から疑問をもっていました。

ひろ さちや の「仏教とキリスト教」(新潮選書)が参考文献ですが、これからしばらく宗教のことを、我らが知るべき常識として書いていきたいと思います。

したがって特定の宗教の批判とか、好き嫌いはなるべく書かないように気をつけます。

ひろさちやがあとがきで書いているように 「外国語を知らない者は、本当は自国語も知らないのだ
と言われる。 外国語と比較することによって、自国語の特色や長所・短所がよくわかる。
それと同じように、1つの宗教しか知らない者は、本当はその宗教をよく理解していないのであろう。
他の宗教と比較することによって、自分の信ずる宗教の特質がよくわかるものである。
自分の信ずる宗教の理解が深まるのである。」

Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiss nichts von seiner eigenen. Goethe

以下の引用については、ひろさちや氏から承諾の手紙をいただいています。

Buddhism and Christianity part 1

釈迦とその教え

インドの人釈迦は現在のインドからネパールにまたがって存在していた釈迦国の王家に王子として生まれた。

釈迦の生没年は諸説があり
a 紀元前624ー544  インド人の説
b 紀元前566ー486  京大系の学者
c 紀元前463ー383  東大系の学者

釈迦は29歳まで、シッダッタ太子として、恵まれた生活をしていた。結婚もし、一子をもうけている。
しかし、29歳のとき、老・病・死という人生の苦を 克服するために妻子を捨てて出家し、
苦行を中心とする宗教的修業に専念した。 6年間、苦行を続けたが、ついに苦行の無意味さに気づき
極端な快楽におぼれず、極端な苦行にも偏しない「中道」を歩むことを決意した。

釈迦35歳のときに、宇宙の究極の真理に目覚め、「仏陀」となる。 仏陀とは、インドの古典語である
サンスクリット(梵語)のブッダBuddha「(真理に)目覚めた人」に漢字を宛てたもので、もともとは宗教的
聖者を呼ぶ一般的な語であった。

仏陀の教えが仏教である。 仏教においては、私たちも仏陀になることが期待されている。
したがって仏教には
 仏陀の教え
 仏陀になるための教え
の2つの意味がある。

釈迦の説いた教理の体系は四諦(したい)と呼ばれている。
つまり4つの真理
1 苦諦(くたい)  苦に関する真理
2 集諦(じったい) 苦の原因に関する真理
3 滅諦(めったい) 原因の滅に関する真理
4 道諦(どうたい) 方法に関する真理

第一の苦諦は、我々の生存が苦である、という事実を確認したものである。 医療でいえば、これは診察に当たる。正しい医療はまず病状を正確に知ることから始まる。

次の集諦は、その苦の原因が欲望にあることを教える。 病気を治すには原因究明が大事である。頭が痛いからといって対症療法的に頭痛薬を飲ませるのは、ヤブ医者のすることで頭痛の原因を知ることが真の治療への道である。

原因がわかれば、その原因を滅すればよいので、それを言ったのが第三の滅諦である。

また、仏教の理想は、苦痛の根源である欲望をコントロールすることで、欲望を際限なくふくらませる解決法は邪道とされている。 つまり、仏教の教えは少欲知足である。 欲望を少なくし、足るを知るこころを持つことである。

最後の道諦は、どうすれば欲望をコントロールできるか その方法を教えたものである。医療でいえば、治療の段階に当たる。 その方法を一口で言えば、正しい知慧を獲得することである。 正しい知慧があれば、我々は欲望をコントロールできるからである。 (ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

Buddhism and Christianity part 2

キリストは予言者?

キリストをめぐって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を比較すると以下のようになります。

キリストは、名をイエスといいます。 イエスというのは、ヘブライ語のヨシュアがギリシア語化したもので 「神は救う」という意味です。 またキリストという名前も、ヘブライ語のメシアをギリシァ語に訳したもので、「聖油を注がれた者」という意味を持っています。 つまり、イエスもキリストも、ともに救世主、救済者を意味しています。

キリストの伝道の目的は、当時の伝統宗教であったユダヤ教があまりにも厳格な律法主義・形式主義に陥っている現状を鋭く批判することにありました。彼は「律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのだ」と主張しています。 そうして、そのような律法主議・形式主義をのり超えるものとして、人類に対する神の愛を強調しました。 したがって、キリスト教は、いわば愛の宗教であると、その性格を特徴づけることができます。

キリストの主張は、もう一つあります。 それは神の国が近づきつつある、という主張です。 この神の国にあずかろうとする者は、みずから改心をし、あらゆる現世的なものを超えて、この神の国を信じなければならないとキリストは宣教したのです。

キリストが、自分自身を神の子であり、メシア(救世主)であると認識していたかどうかは、疑問です。
キリストを神の子であるとする信仰は、彼の死後間もなく弟子たちのあいだで芽生えてきたものです。
そして、キリスト教というのは、じつをいえば このイエス・キリストなる存在を神の子と信じることからはじまるものです。

旧約聖書と新約聖書が、キリスト教の聖書であるが、ユダヤ教では旧約聖書のみを聖書としている。
キリスト教では、イエスは神の子とされているが、ユダヤ教では、キリストはたんなる田舎者のラビ(先生)にすぎません。 つまり、キリストを「人間」と見ているわけです。

また、イスラム教から見れば、キリストは、マホメットの直前に出現した、1人の「予言者」なのです。
すなわち、アッラーの神は、この世の中に多くの予言者をつかわして、 人類に悔い改めるように警告されたが、 旧約聖書(イスラム教徒も旧約聖書をみとめている)のイザヤ、エレミヤ等の予言者が現れても人類はいっこうに悔い改めません。 そこでアッラーは、イエス・キリストを予言者としてこの世につかわしたが、 人類の大半はイエスの予言を無視しました。

そこで、ほんらいなら神は全人類をせん滅されてもよいのだが、慈悲深いアッラーは最後にもう一度だけ人類にチャンスを与えた。 すなわち、最後の予言者としてマホメットが選ばれ、マホメット通して人類にコーランを啓示されたのである。 これがイスラム教の考え方です。

まとめ、イエス・キリストをどうみるか
A.ユダヤ教からみれば....ただの人間
B.キリスト教からみれば... 神の子
C.イスラム教からみれば...予言者

(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、みんな関係があるのですね。 だから、エルサレムには思いが強いのか。

キリストの話していたのはアラム語

Buddhism and Christianity part 3

小乗仏教

たとえですが、 大きな流れの急な川がある
川のこちら側(此岸 しがん)は、われわれのいる迷いの世界、煩悩の世界
川をわたった彼岸(ひがん)は、悟りの世界
仏教の目的は、この川を渡って悟りの世界である彼岸に到達することである。

川を渡るには、最も普通の渡り方は、泳いで渡る、
泳いで渡るには、まず裸にならねばならない
金銀をリュックサックに詰め込んで、それを背負って渡ることはできない。
そんなことをすれば、急流だから、途中で溺れ死ぬ。
同様に家族も連れて渡れない。
やっと自分一人が泳いで渡るだけである。
いや、自分一人にしても、泳いで渡れる保証はない。
泳げなければ、途中で溺れてしまう。
これが小乗仏教である。

裸になって、財産も捨てて、妻や子どもも捨てて、 自分一人だけがようやく彼岸に泳ぎ渡れる教えです。
裸になり、すべてを捨てるということは、すなわち出家です。 小乗仏教は、出家した者だけが、彼岸に渡れる可能性をもっている教えなのです。

自分一人しか救われないから、小乗と呼ばれるのです。 のちに興起した大乗仏教が、このような独善的な出家中心主義の仏教を批判して、小乗と貶称(へんしょう)したのです。 そして、自分たちの新しい仏教を、大乗仏教と名づけました。
大乗仏教:大きな乗り物(教え)大勢の人を向こう岸の彼岸に運べるから

小乗仏教は現在でも東南アジアに信者がいるが 彼ら自身は上座部仏教と呼んでいます。
(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

小乗仏教は大乗仏教も一長一短がありますね。

当初ヒンドゥー教の祠堂、後世に仏教寺院に変更されたアンコール・ワット遺跡

Buddhism and Christianity part 4

大乗仏教

小乗仏教はまじめに自分一人の力で、悟りの世界へ入り救われるという考え方だが、この独善的出家中心主義の仏教を批判して、大乗仏教が生まれた。

たとえとして山登りの比喩をつかう。 誰も登ったことのない山を征服するには、最初は専門家が登る必要がある。 ちゃんと装備をし、あらかじめトレーニングを積んだ登山家が人跡未踏の山に登るのである。 この専門の登山家が出家者である。

釈迦は、最初にいきなり素人(在家信者)をのぼらせるような無謀なことはさせず、出家者という専門家を登らせたのである。 彼らによって道が踏み固められると、のちには素人も軽装で登られるようになると考えてのことである。

なお先ほども書いたが、
小乗仏教というのは大乗仏教の側からの呼び名であり、現在の東南アジアの 仏教徒はこの仏教を信じているが、 彼ら自身は小乗とはいわず、自分自身を呼ぶのに上座部仏教=長老派仏教 とよんでいる。

また、小乗仏教から大乗仏教に対して非難が寄せられている。すなわち、大乗仏教は釈迦の死後にできた新興宗教であって、釈迦が説いたものではない、 次に、大乗仏教の考え方だと、仏教は堕落してしまう危険があるということである。
(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

ところで参考文献を全部紹介しているわけではなく 一部の目についたところだけです。 興味のある方は、この本を読んでみてください。 ひろさちや氏は博学です。さすがに専門家。

Buddhism and Christianity part 5

奈良の大仏とお釈迦様

仏教では宇宙の中心にまします「宇宙仏」のことを「大ビルシャナ仏」と呼んでいます。 奈良東大寺の大仏が、この大ビルシャナ仏です。

この大ビルシャナ仏は沈黙の仏です。ご自分では説法されないのです。 なぜなら、大ビルシャナ仏は宇宙仏ですから、説法をしても宇宙語でされることになります。 そのような宇宙語の説法はわたしたちには理解できませんから、大ビルシャナ仏は沈黙しておられるのです。 大ビルシャナ仏はご自分の毛穴から百千億のシャカ仏を放出して、宇宙のあちこちに説法のために派遣されるのです。

ビルシャナとは太陽の意味です。 このようなシャカ仏を分身仏とよんでいます。 そして、わたしたち人間の世界にやって来られた大ビルシャナ仏の分身仏であるシャカ仏が、あの仏教の開祖のお釈迦さまなのです。

キリスト教では、イエス・キリストを神の子と考えています。
   キリスト教       仏教
  神(ゴット)     宇宙仏 大ビルシャナ仏
  イエス・キリスト   お釈迦さま

(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

Buddhism and Christianity part 6

大日如来=大ビルシャナ仏

さきほどの顕教では宇宙仏を大ビルシャナ仏とよんでいる。 これに対して、密教では宇宙仏を大日如来とよんでいる。

大 ビルシャナ(太陽) 仏 ....顕教
大日如来 .....密教
意味はまったく同じ。

顕教の大ビルシャナ仏は沈黙の仏であったが、 密教の大日如来は雄弁の仏である。 大日如来は宇宙語で雄弁に説法をされている。 宇宙語でなされているから、私たちが聴いてもわからない。 したがって「秘密」といわれている。

密教においては、大日如来の言葉を理解するのに、宇宙語を勉強する必要がある。 密教は、シャカ仏の媒介なしに、直接、宇宙仏の説法を聴聞しようとする仏教である。

密教は空海が中国から伝えてきた。 真言宗がそれである。

(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

私は空海が修行し受戒を受けたという青龍寺(中国西安市)に行ったことがあります。 日本から信者がいつも訪れているようです。

Buddhism and Christianity part 7

ユダはなぜキリストを裏切ったか

キリストの12番目の弟子、イスカリオテのユダは、なぜキリストを裏切ったのか、 銀30枚で、師を裏切った謎は、やっぱり研究されているのでしょうか。ユダは会計係だったようです。 大勢の信者がキリストのことろに集まって、キリストはユダに、みんなに食べ物をだせ等無理な注文をしたようですが...

ユダはキリストをローマ帝国に反抗する政治的指導者、政治的救済者と考えていたようです。 しかし、キリストがいっこうに政治的に動こうとしないので、失望のあまり敵にキリストを売り渡したであろう..とする説が有力だそうです。

ほかに、うがった見方もある、キリストとユダの間に密約があった。 もしキリストが敵から無視され、相手にされないようなことがあれば、キリストは当時多く輩出していた偽予言者と同じになり、キリストの救い主としての道は閉ざされることになってしまう。 だから、キリストが予告通りに捕らえて殺されるために、ユダはキリストと仕組んで、敵方に通謀したのだ、という説がある。

しかし、キリストのはりつけの後に、ユダが自分の行為を後悔し、貰った金を返そうとしたが受け取ってもらえず、自ら首を吊って死んだので、密約説は疑問だ。
(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

 太宰治の小説に「かけこみ訴え」という小説がある。 ユダはキリストに憧れていた、という、ここではあからさまに 書けない内容ですが、一度読む価値があります。 ユダもキリストに好意を持っていたからこそ、キリストとその集団の世話をしていたのでしょうか。愛すればこそ憎しみも深い。

Buddhism and Christianity part 8

日本における宗教の信者数
日本における仏教徒とキリスト教徒の数

文化庁編「宗教年鑑(昭和58年版)」によりますと、わが国の宗教人口は次のようになっています。
 神道系  1億0305万人
 仏教系    8664万人
 キリスト教系  151万人
 諸教     1588万人
 総計   2億0708万人

なんと信者総数はわが国の人口を軽くオーバーしている。 これは、1人で2つ3つの信仰をもっているためです。 それに、神社や宗教団体が信者数を都道府県知事に届けるとき、神社は自己の地域の住民をすべて氏子としたり、 宗教団体は勢力を誇示するため、水増しの数字を届けるからです。

 文部大臣が所轄する包括宗教法人(全国単位の大きな宗教法人)の信者数は当然これより少ないが、やはり日本の人口を上回っています。
 神道系     8564万人
 仏教系     8080万人
  天台系     311万人
  真言系    1288万人
  浄土系    2030万人
  禅系      909万人
  日蓮系    3333万人
  奈良仏教系   207万人
  その他       4万人
 キリスト教系   105万人
  旧教       39万人
  新教       66万人
 諸教      1233万人
 総計    1億7982万人  

仏教系のうち、日蓮系がとくに多いのは、創価学会の属する日蓮正宗や、 霊友会、立正佼成会といった新宗教の信者が含まれているためです。

それらの新宗教を除いて、信者数の多い仏教教団をピックアップすると
 浄土真宗本願寺派(西) 703万人
 曹洞宗         689万人
 浄土宗         601万人
 真宗大谷派(東)    553万人
 高野山真言宗      456万人
 日蓮宗         229万人
 真言宗智山派      153万人
 真言宗豊山派      113万人
となっています。
(ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

どうも宗教の統計はあてにならないようだ。

Buddhism and Christianity part 9

末法思想と最後の審判。 その終末観の違い

仏教には、末法思想があります。 末法思想というのは、完全なものは永久に続かず、 時間の経過とともに堕落するといった下降型の歴史観です。 近代西欧に誕生した、そして私たちが常識的に信じている「発展型の歴史観」の、ちょうど対極をなすものが末法思想です。

仏教は釈迦の教えですが、釈迦の死後500年間を正法の時代といい そこでは釈迦の説いた教え(教)が完全な形で受け継がれており、 その教えにしたがって修行(行)する人が存在し、また悟り(証)を開く人がいる、 つまり 教・行・証の三拍子がそろっている時代です。

ところが、500年を過ぎると、像法(ぞうほう)の時代になります。 像法の時代は1000年続きます。 この時代になると、教と行はありますが、修行の結果、悟り(証)を 得る人はなくなります。

さらに、その後に末法の時代がきます。 つまり、釈迦の死後、1500年目からで、末法の時代は1万年
続きます。 この時代になると、もはや修行(行)する人もなくなり、 ただ仏教の教え(教)だけが残っているのです。 そして末法時代が1万年続いたあとは、教すらなくなった法滅の時代になるわけです。

要するに、釈迦の時代→正法時代→像法時代→末法時代→滅法時代
と、時代はだんだん悪くなるという考え方です。

ところで、いま、正法時代が500年、像法時代が1000年といいましたが、じつはこの計算でいくと、末法時代のはじまりが552年になります(昔は、釈迦の入滅を紀元前949年としていました)。 552年といえば、『日本書紀』が仏教伝来の年としている年です。 ということは、日本に仏教が伝わってきた時、すでに末法であったということになります。それではちょつとかわいそうです。それで、日本では、正法の時代も1000年とし、正法時代1000年、像法時代1000年、かくて2000年後に末法時代がはじまるとしました。この計算によると、日本における末法の時代は、永承7年(1052)にはじまることになります。ちょうど平安時代の末期に当り、この年には長谷寺が焼失し、武士の勃興、僧兵の横暴などの社会現象が見られ、貴族たちは危機意識に駆られはじめています。

そうした危機意識を背景に、浄土信仰が盛んになり、やがて鎌倉時代の、
 法然の浄土宗
 親鸞の浄土真宗
 道元の曹洞宗
 日蓮の日蓮宗
となって結実するわけです。したがつて、末法思想は、日本仏教の展開に大きな影響を及ぼした思想なのです。

キリスト教では、世の終わりにイエス・キリストが再び地上に来て、神とともに全人類を裁くという思想があります。 最後の審判のためにキリストが再び地上に現われることを「キリストの再臨」といいます。 この審判によって、人が天国に送られるか、地獄に送られるかが決定します。 最後まで心をかたくなにして神に反逆した者は、地獄に送られるのです。

世の終わりの前兆は、戦争や飢饉、地震、迫害などであり、偽キリスト、偽予言者が横行して人々をまどわせます。 そのあとで本物のキリストが雲に乗って来臨し、彼を信じてその教えを実践した者を救い、そうしなかった者を滅ぼすのです。

この最後の審判は、キリスト教美術において重要な主題となっています。(ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

完全なものは永久に続かず、時間の経過とともに堕落するこれは般若心経のテーマですね。 現代物理学で言えば、エントロピーは増大する。

エントロピーは小さいほどいいから、自然にさからってエントロピーを減らすことを、反エントロピーという用語で表すことにする。 子供は反エントロピーを増やす能力に乏しい。 座敷をおもちゃなどで散らかし、畳や壁をよごす。 主婦はおもちゃを片付け、座敷を掃除し、よごれを拭う。 彼女らは自然の傾向に逆らって、反エントロピーを大きくしている。 洗濯も同じである。 反エントロピーの増加は、いわゆる仕事と呼ばれているものの中にだけあるわけではない。 中国からのゲームで、はじめ配られる13(4)枚の牌は、普通には極めてエントロピーが大きい。 (たまたま、はじめからエントロピーが小さいときには、天和とか地和とかいって大そう珍重する) ゲーム開始と同時に、4人のプレーヤーはせっせと反エントロピーの増加にはげむ。 14枚の牌がきめられたエントロピーの極小値(必ずしも最小値ではない)に達したとき上がりとなる。 このときの極小値の値が小さければ小さいほど点は高い。
(都筑卓司:マックスウェルの悪魔、講談社ブルーバックス)

自然現象は煙が拡散するように秩序が崩れて、混沌とした状態になっていく。 つまり自然現象ではエントロピーは増大する。 しかし、人間は上にあげた例のように、 エントロピーの小さい状態をわざわざ作り上げたりする。 (時には徹夜までして)

人間の力こそがエントロピーを小さくするとなると、仏教も末法を救うのは人間自身かもしれない。 こういう考え方が近代欧米流の考え方であろうか。

Buddhism and Christianity part 10

仏教の輪廻思想とキリスト教の復活思想の考え方の違い

いかなる宗教も、いま現在の生につづく来世(死後の世界)をもっています。 そして、その来世は、われわれがこの現在の人生をどう生きるかによって大きくちがってきます。信仰をもって正しく生きた人は、来世で嘉(よみ)せられます。また、逆に悪人は来世で罰を受けます。それが、だいたいどの宗教にも共通した考え方です。

さて、キリスト教の復活思想ですが、イエス・キリストは十字架の上で死んで、 三日後に復活しました。このキリストの復活を証(あか)しとして、キリスト教徒はまた自分たちも復活すると信じています。それが復活思想です。

キリスト教においては、人間が死ねば、その存在全体が「死」の権力下におかれるとしています。すなわち、人間の魂は陰府(よみ)につながれ、体は墓のなかで腐敗します。けれども、それは一時的な状態です。 人間はいつか、神のめぐみによって、再び生きた姿で復活します。それは、深い眠りからの目ざめのようなものです。

仏教の輪廻思想の特色は、来世ばかりでなく過去世(前世)があると信じる点にあります。キリスト教には来世(復活)はありますが、前世はないのです。 あるいは、換言すれば、仏教の来世は有限の世界であって、したがって来世にも終りがあり、来世のあとにまた次の来世がくるという考えです。 われわれは、そうした無数の世を生まれ変わり死に変わりして輪廻転生する ー というのが、仏教の輪廻思想です。これに対してキリスト教では、来世は永遠の世界であって、仏教のように、来世のあとにさらに次の来世があるというわけではありません。

仏教は、生まれ変わり死に変わりして生存をつづける輪廻の世界を考えますが、その輪廻の世界を「五趣(ごしゅ)」または「六道(ろくどう)」といいます。
「五趣」は、
 天人−人間−畜生−餓鬼−地獄
の五つの世界で、古くはこの五つの世界をわれわれが輪廻転生すると考えられていました。のちに、大乗仏教になると、天界のうちの怒れる魔類を”阿修羅(あしゅら)”(または”修羅(しゅら)”と呼び、天界から独立させて人間以下の存在としました。したがって、「五趣」ではなく「六道」になったのです。

すなわち、
 天人−人間−修羅−畜生−餓鬼−地獄
が「六道」です。”趣”も”道”も、ともに「往く」といった意味で、「五趣」「六道」とは、わたしたちが「死後に往く世界」の意なのです。 それが輪廻の世界です。

ところで、仏教はインドに生まれた宗教ですが、インド人は心の底から輪廻を信じています。 インドのヒンディー語に、 ”サンサール” という単語がありますが、これは「世界」を意味すると同時に「輪廻」を意味しています。彼らは、「輪廻」イコール「世界」だと捉えているのです。

わたしはあるとき、インド人に、
  この代(よ)にし楽(たぬ)しくあらば来(こ)む世(よ)には、虫に鳥にも吾(われ)はなりなむ
という、『万葉集』の大伴旅人の歌を紹介しました。 この世さえ楽しければ、来世は地獄に堕ちてもかまわぬ − という意味で、 だいたい日本人はこう考えているでしょう。

ところが、インド人は腰を抜かさんばかりにびっくりしてしまいました。 この人生は50年か、100年。しかし、地獄に堕ちると、最低でも一兆六千二百億年苦しめられる。50年か100年のために、一兆六千二百億年の苦痛は割に合わぬではないか!? というのがインド人の論理です(地獄には八大地獄といって、八つの地獄があります。そのうち、最も刑期の短い地獄の刑期が、一兆六千二百億年なのです)。

けれども、日本人は、輪廻転生を信じているようで信じていません (あるいは、信じていないようで信じている、ともいえますが……)。 だから、一兆六千二百億年は架空の数字に思えるのです。 インド人ははっきりとそれを信じているので、だから現世をつつましく生きるのです。 そこのところにインド人の宗教性があり、そして日本人の非宗教性があると、わたしは思います。

Buddhism and Christianity part 11

教会 キリスト教の教会です

教会
教会はヘブライ語でカーハールといい、集会の意味です。 また、ギリシャ語ではエクレーシアといい、この語は「呼ぶ」「召集する」 といったギリシャ語の動詞エカレオーから作られた名詞です。 したがって、「礼拝のために召集された集まり」といった意味が、「教会」 の原義です。

すなわち、「教会」は人間が勝手につくったものではなく、イエス・キリストの救いのわざをもとに、キリストによって召し集められた共同体なのです。 それ故、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしているかた(=キリスト)の満ちておられる場です (エペソ人への手紙、第1章)」といわれています。

教会の主要な任務は、礼拝を守ること、洗礼や聖餐などのサクラメント(聖礼典)の執行、キリストの福音を伝えること、信徒どうしの交わりを深めること、などです。

教会の歴史は、キリストが十字架の上で死んで3日後に復活し、弟子たちの前に姿を現したときにはじまるとされています。 すなわち、弟子たちはキリストの復活によって勇気と力をあたえられて、福音を各地に述べ伝えていく自信をもったのです。 その結果、多くの者が信者となり、最初の教会がエルサレムに誕生しました。 (ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

ローマの教会や遺跡

教会の建築は宗教が大きな力をもっていたため、当時の最大の技術、経済力、政治力を反映した建築であった。

日本の仏教寺院もやはり中国や朝鮮半島から伝わってきた、最高の文化と技術であった。

Buddhism and Christianity part 12

寺 仏教の寺です

仏教の寺は、ほんらいは僧侶(出家修行者)の修行の場所でありました。寺は、もともとは精舎と呼びます。

インドの僧侶は、基本的には遊行生活をしていましたが、インドには三ヶ月間の雨期があります。この期間は旅行ができません。 それで雨期の三ヶ月間、仏教の出家者は一カ所に集まって修行しました。 それを安居(あんご)といい、その場所が精舎です。

仏教における精舎の第1号は、インドはマガダ国の首都 王舎城(現在のラージギル)郊外にあった竹林精舎です。この精舎は、マガダ国王のビンビサーラが釈迦に寄進したものです。

また
コーサラ国の首都
舎衛城(現在のサヘト・マヘト)郊外に建立された祇園精舎も有名です。
平家物語には
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」とありますが、
祇園精舎に鐘はなかったそうです。

このようなインドの精舎が、中国では寺になりました。 寺はもともと役所や外国の使節を接待する建物のことです。 西域から中国に仏教が伝わったとき、外国人の僧を寺(接待所)に泊め、仏像や経典を寺に安置しました。 鴻臚寺(こうろじ)という寺(接待所)だったのですが、のちに仏教僧のための特別接待所として白馬寺がつくられました。

そんなわけで、寺が僧の住むところ、そして仏像などを安置し、経を読むところになったのです。
(ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

日本建築史では当然、仏教寺院の知識が必要です。 そういう知識を得てから、奈良や京都の見学をすると 理解が深まり楽しいです。

Buddhism and Christianity part 13

数珠とロザリオ

数珠
数珠は、ふつう「じゅず」と読みます。漢字をそのまま読めば「ずじゅ」としか読めないのに....。 もっとも山茶花だって、「さんさか」なのに「さざんか」と読むわけですよね。

仏教徒が用いる数珠も、カトリック教徒が用いるロザリオも、もともとお祈りの回数を数えるために使われるものです。 したがって、その本来の役割は同じです。

 仏教の数珠の珠は108個が原則です。仏教では百八煩悩といって、私たちは108の煩悩をもっていると考えられています。 そこで、仏を一回礼拝するたびに、あるいは念仏を一回となえるたびに、数珠を一つ爪ぐりし、それを108回繰り返し108の煩悩を消滅させるのです。 除夜の鐘を108撞くのも同じ思想です。

 実際は108珠の数珠は大きくて重いので、略式の数珠が使われています。 略式のものは珠の数が54、36、27、18のように、108の公約数となっているものが多いようです。

インドのヒンデゥー教でも、やはり数珠が使われます。というより、仏教の数珠は、ヒンドゥー教に学んだものかもしれません。 このヒンドゥー教の数珠は、ジャパマーラー japamala といいます。 ジャパとは、神の名を唱え、神の姿を心に思い浮かべることです。 そして、マーラーは輪のことです。ですから、ジャパマーラーは「念誦(ねんず)の輪」なのです。

ところが、ローマ人は、このジャパをジャパーと聞き誤りました、ジャパーと伸ばすと意味がすっかり変わって、サンスクリット語でバラのことです。 そこで、ジャパーマーラーはバラの輪と解され、ラテン語でロザリウム、 ポルトガル語でロザリオ、英語でローザリーrosary と呼ばれるようになったのです。

ロザリオの珠の材料は、バラの木を材料にしたものはめったになく、木、ガラス、 水晶などです。 もともとヒンドゥー教ではバラに関係がなかったのに、ヨーロッパから日本にロザリオとして入ってきて、数珠と先祖が同じだということは知っている人しか知らない事実でした。

ただしロザリオとは歌の中にでてくる言葉であって、日本ではロザリオのことを、 コンタスあるいはコンタツと呼びます。 どうやらキリシタン時代に日本に来たポルトガル宣教師が、ロザリオを「計算する contas 道具」と説明したのに由来するようです。

 イスラム教でも数珠を用いるそうです。 (ひろ さちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

秋葉原もそのまま読めば、アキバハラ、
どこかで間違ってアキハバラになったのだろう。

ロザリオと数珠、先祖を同じくするものが、日本で再会した。

タルタルステーキを焼けばくず肉利用のハンバーグ(そのゆかりのドイツの町ハンブルクの名前を英語読みにした)。 タルタルステーキはモンゴル人の知恵か。モンゴルに支配された朝鮮の人々が食べるようになったユッケ。 くしくも、日本でアメリカ経由のハンバーガーと焼肉屋のユッケが再会した。

まことに、日本は流れ着いた文化の交渉する終着地。

Buddhism and Christianity part 14

キリスト教の偶像崇拝

キリスト教の偶像崇拝禁止
キリスト教では、ユダヤ教の伝統を受け継いで、偶像崇拝を禁じています。 偶像崇拝を禁じる根拠は、モーゼの十誡の第二「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」にあります。

なぜ、ユダヤ教は偶像崇拝を拝したのでしょうか。それは、神の唯一性と超越性をまもるためだと思われます。 私たちが神の像をつくるなら、神はとたんに低次元で卑俗な存在になってしまいます。

なぜなら、創られた像に対しては、人間は好き・嫌いを言いはじめるでしょうし、もっと美しい像を考えることができるからです。 つまり、創られた像は比較の対象となり、相対的な存在でしかないのです。 しかし、神はそうした相対の存在ではありませんから、結局、像を創ることは神を卑しめることになるわけです。

新約聖書の時代になると、キリストにおいて託身が実現され、人間として描かれる機会が与えられたのです。

そうはいっても、最初期のキリスト教徒はユダヤ教の伝統に束縛されていましたし、迫害の時代にあって、その信仰告白を異教徒に知られないために、明らかにそれとわかるようなキリスト像をつくりませんでした。

キリストを示すに魚をもってするというように、象徴的図像によっていました。 なぜ魚かといえば、イエス(Iesous)、キリスト(Christos)、神の子(Theou Yios)、救世主(Soter)のイニシアルなどをつなぐと、 「魚(ichthys)」になるからです。

しかし、迫害の時代が終わると、教徒たちはキリスト像を喜んで表現したのです。 (参考文献 ひろ・さちや、仏教とキリスト教、新潮選書)

昔 盛岡の四ツ家教会のステンドグラスを見せてもらったことがあります。 この教会は、中央郵便局の近くで、カトリックの教会です。

神父さんから、このステンドグラスは信者の浄財を集めて、スイスに注文して作ってもらったのだ、という話を聞きました。

キリストを象徴するのは、魚である、ということを教えてもらいました。 もし、なにかの機会に四ツ家の教会に行かれることがあったら、 大きな赤い魚の描かれたステンドグラスを見てみてください。

Buddhism and Christianity part 15

仏像を分類すれば

仏像の分類

仏教の場合、偶像崇拝が禁止されているわけではありません。 仏教においては、悟りを開いた聖者である仏陀とわれわれ人間が、キリスト教の神と人間とのように断絶していないからです。

仏陀と人間は連続しています。人間が悟りを開いたとき、仏陀になります。 したがって、仏陀の像をつくることは許されているわけです。

しかし、歴史的にみると、釈迦の死後数百年のあいだ、仏教においても仏像はつくられていません。

その理由は、仏陀というものは迷いの世界から消滅した存在だと考えられていたからです。すなわち、姿なき仏陀であったのです。

それがのちに、迷える衆生を救うために、この世界に来現した仏陀が考えられるようになり、仏像がつくられました。 仏像がつくられたのは、紀元後1、2世紀のころとされています。

一般の人は、仏教において礼拝されている尊像のすべてを「仏像」とよんでいますが、これは仏教学的にいえば、広義の仏像です。 この広義の仏像には、狭義の仏像、つまり如来像のほかに菩薩像や明王像や諸天像などが含まれています。

1.如来(にょらい)像
 如来という言葉は仏とまったく同義です。如来(仏)は、仏教において最高究極の存在です。
代表的な如来は、
 a.釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)(釈迦仏)仏教の開祖の釈迦のこと
 b.毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ) 奈良の大仏さんがこれ
(なお鎌倉の大仏は、阿弥陀仏)
 c.大日(だいにち)如来 密教の中心的仏 密教の大日如来と、顕教の毘盧舎那仏は、同体異名の仏とされる。
 d.阿弥陀仏 西方・極楽(ごくらく、決してきょくらくとは読まないように)の救主であり、我国では釈迦牟尼如来と並んで人気のある仏である。浄土宗・浄土真宗では、阿弥陀仏のみ拝む。
 e.薬師如来 東方・浄瑠璃世界の救主
 これらの如来の特色は、出家の姿をしておられることです。装身具はいっさいつけず、衣服もゆったりした布をまとっておられるだけである。 ただし、大日如来だけは例外で、この如来は王者の姿で造像されます。

2.菩薩(ぼさつ)像
 菩薩というのは、仏(如来)に準じた存在で、やがては仏になられる方です。 観音菩薩(観音さま)や地蔵菩薩(お地蔵さん)などは、すでに仏に等しい存在なのですが、仏になるとこの世を去って真理の世界に消滅せねばならないので、わざわざ仏にならずに菩薩のままでおられる存在です。それは、われわれ迷える衆生を救うためです。
 a.観音菩薩 女性的だが、仏教の教理によると菩薩は基本的には男性である。 世の中の衆生が苦しみの「音」声を発したとき、それを「観」じて救済される。
 b.地蔵菩薩 お地蔵さんのこと
 c.大勢至菩薩 観音菩薩とペアになって、阿弥陀如来の脇侍(わきじ)をつとめる。
 d.弥勒(みろく)菩薩 釈迦牟尼仏がこの世に出現された後、56億7千万年後にこの世に出現される未来仏です。 現在はまだ仏ではなく、兜率天(とそつてん)と呼ばれる天界にあって修業中(瞑想中)です。 京都・広隆寺の半跏思惟像が有名
 e.文殊菩薩・普賢菩薩 これらはペアになって釈迦牟尼仏の脇侍(わきじ)をつとめる。 普賢といえば普賢岳が連想される。
 f.日光菩薩・月光菩薩 薬師如来の脇侍をつとめる。
 g.虚空蔵(こくぞう)菩薩
菩薩は基本的には在家の人間です。したがって、首飾り、胸飾り、腕輪、イヤリングなどをつけています。  ただし蔵菩薩(お地蔵さん)は例外で、ほとんどが頭の丸い出家僧の姿です。

3.明王(みょうおう)像
 簡単にいえば、仏の世界の王者である大日如来の使者。 使者というより捕吏といったほうが当たっている。 手には剣や羂索(けんさく ひものこと)をもち、恐ろしい忿怒形(ふんぬぎょう)で造像されている。
 a.不動明王 お不動さん 不動明王の体あるいは目を青・黄・赤・黒・白に彩色し、五体の尊像を造って、これを「五色不動」と呼ぶ。 昔、江戸の四囲にこの五色不動があったが、現在は「目黒不動」だけが残り、「目白不動」は目白という地名にその名残をとどめている。
 b.愛染明王

4.諸天像
 天というのは神のことです。インドの神様を中国人は天と訳したのです。仏教に守護神としてとりいれられたインド起源の神様が諸天である。
 a.梵天(ぼんてん)
 b.帝釈天(たいしゃくてん) 帝釈天といえばフーテンの寅さんを連想する。
 c.四天王 帝釈天配下の武将で、東西南北の四方を守護する。東方を守護する持国(じこく)天、南方の増長(ぞうじょう)天、西方の広目(こうもく)天、北方の多聞天(毘沙門天)
 d.吉祥天(きちじょうてん、きっしょうてん)
 e.鬼子母神(きしもじん) 人間の子どもを食う食人鬼だったが、釈迦の教えを受けて悔悛し、出産と育児の女神となる。
 f.大黒天 日本では音の類似から、オオクニヌシノカミ(大国主神)と習合し、柔和な福相を帯びた大黒さまのイメージになった。
 g.弁才天 弁才天は後世になると弁財天と書かれ、福徳神としての性格が強調される。
 h.聖天 歓喜天
(参考文献 ひろ・さちや、仏教とキリスト教、新潮選書)

京都国立博物館の仏像

奈良国立博物館の仏像

目白と目黒と関係があるのか、と思っていましたが、やっぱりあるジャンルでまとめられるわけですね。
黄不動、赤不動、青不動はそれぞれ体の色から、そう名づけられているようです。

わたしごとですが、 ドイツから帰ってきてドイツ語の先生たちに、ドイツの橋や風景を見せたこ
とがあります。

ドイツでは(フランスもそうでしょうか)、広場や町のいたるところにキリストやマリアにまつわるものが作られています。 ヴュルツブルクのマイン川にかかる橋にも聖人の像がたくさん、彫刻として作られ欄干とともにならんでいました。

したがって、ドイツは宗教をどこでも、とりいれている。 日本にはなかなか見られないことだ、と言ったら、日置先生が日本にもお地蔵さんが、いたるところに見られると教えてくれました。

確かに、盛岡にもたくさん地蔵さんの姿は見られます。 地蔵さんも、こうしてみると、釈迦の悟りをひらく前の姿をモデルにして仏教というよりは、日常のやさしい存在として、わたしたちの生活の中に今も存在しているようです。 昔話の、傘地蔵の話もありますね。

 日置先生は民俗学に強く、ドイツと日本の民俗、文化、伝統に造詣があります。

どういうわけか、私のところに日置先生の論文が送られてきたことがあります。 鯨のテーマは日置先生が得意なものの1つですが、 鯨のことを「いさ」といい、いさなとりとは鯨漁のことですが、 日本の神話の国引きとは鯨に関係があるとか、鯨=イサからイザミナとイザナギが生まれたことなど詳しく論じていました。

日置先生は岩手大学から天理大学の先生になられて、現在は八戸市の大学に勤務されているようです。

Buddhism and Christianity part 16

仏教とキリスト徒の祈りの言葉

「南無(なむ)」というのは、古代インドのサンスクリット(梵語ぼんご)の”ナマッハ”または”ナモー”という語を、音写したものです。 その意味は「敬礼」です。したがって「南無」は意訳して「帰依」になりま
す。 全身全霊をこめて仏を拝み、またお経の教えを信ずることを表明したことばが「南無」です。

 そこでまず
「南無阿弥陀仏」は、
阿弥陀仏にすべてをおまかせすることを表明した祈りのことばです。この南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏を本尊とした浄土宗および浄土真宗でのことばです。

 つぎに有名なのは
「南無妙法蓮華経」
です。これは妙法蓮華経すなわち法華経の教えをひたすら信じることを誓ったことばです。日蓮宗の人たちが、これを唱えます。

 禅宗においては、釈迦牟尼仏(釈迦仏)が本尊ですから、「南無釈迦牟尼仏」が祈りのことばになります。

 また真言宗においては
「南無大師遍照金剛」となります。 遍照金剛とは、真言宗の開祖の弘法大師空海のことです。開祖の弘法大師に帰依を表明したことばです。

 そのほか
「南無観世音菩薩」と、観世音菩薩つまり観音さまに祈ることばもあります。

 また、インド人は今でも挨拶の時は合掌しながら「ナマス・テー」といいます。 「ナマス」とは「南無」と同じことばで、「テー」は「あなた」です。 あなたに帰依します、という意味です。すばらしい挨拶ではありませんか。

キリスト教では、祈祷の最後に 「アーメン」 といったことばをつけ加えます。これはヘブライ語で「しかり」「しかあれかし」の意味です。

祈祷の最後にこの「アーメン」を加えるのは、その真実味を神に誓い、また他人の祈祷に同意するためです。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

パソコン通信に書いた元の記事は順序もばらばらで、思いつきのところもありました。 今回は少し整理して、順序を整え、補足しました。

しかし、この本には全部で50のQ&Aが載っています。 その中の一部の紹介でした。

私にはなかなか難しくて、正確に解説しているという自信はありません。 自分でわかった範囲の一部だけ紹介しているようなものです。 興味のある方は、この原書をお読みください。

Buddhism and Christianity part 17

キリスト教の聖地 仏教の聖地

キリスト教の三大聖地
1 エルサレム
2 バチカン
3 サンチャゴ・デ・コンポステラ

エルサレムはキリストの生涯と受難の地である。 エルサレムは、たんにキリスト教の聖地であるばかりでなく、 ユダヤ教の聖地でもあり、さらにはイスラム教の聖地でもある。
(十字軍の歴史を思い出そう)

バチカンは、イタリアのローマの中にある世界最小の国家(バチカン市国) です。ここには、全世界のカトリック教会の中心である ローマ法王庁(教皇庁)があり、教皇がいます。

サンチャゴ・デ・コンポステラは、スペインにある聖地です。 聖ヤコブがここに埋葬されたと伝えられています。 近くの海岸でホタテ貝の貝殻が多く取れ、この貝殻は「聖ヤコブの貝殻」 と呼ばれ、この貝殻を持っていると死後の再生が保証されるという伝説があり、巡礼者をひきつけているようです。

仏教の四大聖地
1 ルンビニー
2 ブッダガヤー
3 サールナートの鹿野苑(ろくやおん)
4 クシナガラ

ルンビニーは釈迦の生誕の聖地です。 この聖地は、ネパール国内にあります。 インドの国境からわずか10キロばかりの所ですが、 仏蹟巡拝の旅をするには、ネパール政府のビザが必要です。

ブッダガヤーは釈迦の成道(じょうどう 悟りを開くこと)の聖地です。 この地にある菩提樹の下で、釈迦は悟りを開いて、仏陀となったのです。

サールナートの鹿野苑は、初転法輪(しょてんぽうりん 釈迦のはじめての説法)の地です。サールナートはベナレス(バーラーナシー)市の郊外に位置しています。

クシナガラは釈迦が80歳で入滅した聖地です。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

大学院生のネパール研修の感想

インドの仏教文化の遺跡をたずねて

聖地を巡るツアーもありますね。 イスラム教徒は一生に一度メッカに巡礼することを夢みている。

Buddhism and Christianity part 18

飲酒・喫煙について

飲酒については、仏教は五戒でもってこれを禁じています。

五戒とは、不殺生戒(生き物を殺さない)不妄語戒(嘘をつかない) 不偸盗戒(ぬすまない)不邪淫戒(淫らなセックスをしない) 不飲酒戒です。

(不殺生戒ふせっしょうかい 不妄語戒ふもうごかい不偸盗戒ふちゅうとうかい 不邪淫戒ふじゃいんかい
不飲酒戒ふおんじゅかい です。念のために)

飲酒については、飲酒そのものは悪ではないが、酒を飲むと気が大きくなるためでしょうか。他の4つの戒を守りにくくなる。 だから不飲酒戒が制定されたのだ、という意見もあります。 とすれば、酒は飲んでも、酒に飲まれなければいい、 ともいえそうです。

あるいはインドのような暑い国では、酒を飲まずにいることはそれほど苦痛ではありません。 私のような酒好きでも、インド旅行中はあんがい酒を飲まずにいられます。

しかし、日本は寒い国ですから、冬には身体をあたためる酒がほしくなります。その意味では、日本人にとって酒は必要悪ともいえそうです。

そのためもあって、たとえば高野山を開いた弘法大師空海は、少量の酒を弟子に許しています。

なお、日本の寺院では、般若湯(はんにゃとう)といった隠語が使われています。 般若(つまり知恵)の湯、少しのお酒は頭を活性化させ知恵がわくからでしょうか。

キリスト教においては、飲酒を悪とは見ていません。 それどころか、「新約聖書」には、「これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびの痛みを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい」
(テモテへの第一の手紙第5章)と、仏教徒からすればうらやましくなるような記述があります。

もっとも、この引用に対しては、次のような引用を対置することができます。「...不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者  ^^^^^^^^^^ 略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである」 (コリント人への第一の手紙第6章)」

キリスト教の教会においては、ぶどう酒をキリストの血だと考え、 ぶどう酒が飲まれています。 しかし、酒に酔ってはいけないのですね。

なお、飲酒を教義的に厳しく禁じている宗教はイスラム教で、 コーランにおいて飲酒と酒類の製造・販売が全面的に禁じられています。

喫煙については、仏教もキリスト教も、教義的には何も言っていません。 喫煙は両宗教の成立後、ずっとあとになっての風習だからです。 でも、どちらかといえば、喫煙は悪ではないでしょうか。 あんなもの、決していいとは言えませんものね。

Buddhism and Christianity part 19

仏教での布施とキリスト教における施し

仏教では、布施を重要な仏道修行と考えています。 布施というのは、他人に財物を施すことですが、その際、 次の3つのものが清らかでないと真の布施になりません。
1 施者のこころ  俺がおまえに恵んでやるんだゾ、だから、おまえは俺に感謝しなければならない。そんな気持ちがあっては、布施になりません。
2 受者のこころ  布施を受ける人のこころも清らかでないといけません。布施を受けることによって卑屈になったり、お返しをしないといけないと考えるようでは、それは布施にならないのです。
3 施物  施す金銭や品物も清らかでなければなりません。盗んだ物や汚職で得た金を施しても、それは布施にはなりません。  それから、自分が不要になった物を施す人がいますが、それは真の布施ではないのです。自分にとって大切なものを施すのが、真の布施です。

私は、この布施の精神を、子どもたちに話して聞かせました。 私は一男一女の父親ですが、彼らが小学生のとき、姉娘が友だちの家からケーキを貰って帰って来ました。 家には弟がいます。 母親は、ケーキを二つに分けて食べさせていたのですが、 私は彼らに、「なぜケーキを分けて食べたほうがよいのか?」 と尋ねました。

「弟がかわいそうだから」と、娘が答え、 「こんどぼくが貰ったとき、お姉ちゃんに半分あげるから」 と息子が言いました。

私は、二人とも違っていると教えたのです。 「一つのケーキを二人で分けて食べた方がおいしいのだよ。 お父さんはあなたたちが、一つのケーキを二つに分けて食べて、 その方がおいしいと思える子どもになってほしい」 そう、私は言ったのです。 私は、これが仏教の布施の精神だと思っています。

Buddhism and Christianity part 20

読者のK先生>
>> 「一つのケーキを二人で分けて食べた方がおいしいのだよ。
>> お父さんはあなたたちが、一つのケーキを二つに分けて食べて、
>> その方がおいしいと思える子どもになってほしい」
>> そう、私は言ったのです。
>
>私には3才になった娘がいます。
>とにかく彼女に教えたかったのは、まさにこれでした。
>Shareする心です。
>彼女は実践してくれています。(ちょっと親ばかm(_ _)m)
>いつまでも、そうあって欲しいと思います。
>とうちゃんにも半分よこせというわけではありません。念の為。(^^;;
>
>最初の教会の姿がこれであったと思っています。

早速のフォロー記事ありがとうございます。
この原稿を書いているとき
新聞記者の方の相手をしたり、
学長室で次の補正予算の相談会議などがあったので
半分しか書けませんでした。

そこで後半のキリスト教の施し について書きましょう。

キリスト教の施しの観念の裏には、財は神からの依託物であり、 富める者はその財を貧しい者とわかちあう義務があり、 貧しい者は富める者に施しを要求する権利があるといった「旧約聖書」の考え方があります。 それと同時に、初期キリスト教の教会においては、 富める者が自分の財を投げ出して貧しい者とわかちあった原始共産社会が実現していました。 このような背景の上に、キリスト教の施しの基本理念があります。

キリストは、施しについて次のように言っています。 「だから、施しをする時は、偽善者たちが人にほめられるために 会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。 よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイによる福音書第6章)

「また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。 罪人(つみびと)でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、 人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。 そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう」(ルカによる福音書第6章)

そしてキリストは、不幸な同胞たちに対する施しは、それがとりもなおさずキリストその人に対する業にほかならない (「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 マタイによる福音書第25章) と言っています。 つまり、施しは、キリストに対する信仰表明とされているのです。

このように考えれば、仏教の布施も、キリスト教の施しも、 つまるところは同じになるのではないでしょうか...。

    ☆     ☆     ☆

中世のヨーロッパの都市には兄弟団がありました。 兄弟団の会員は、毎日曜に自分たちの祭壇の前にひざまずいて、 死去した仲間の冥福と自らの魂の救いを祈ったのです。 これらの人々は、どのような動機で兄弟団に組織されていたのでしょうか。

兄弟団には、職業と結びついているものと、職業とはなんの関係もないものとがありましたが、商人ギルトや職人組合などは前者にあたります。これらの兄弟団は、死者と自分の魂の救済のために祈るだけでなく、互いに兄弟姉妹と呼びあう会員の相互扶助のための組織でもあったのです。

兄弟団のなかでも特筆に値するのが「貧しい旅人を保護し埋葬する兄弟団」です。 11,2世紀以来ヨーロッパの各地に巡礼の群れが激増してゆきます。 巡礼や放浪者が増加することも、 都市の成立を促した同じ大きな社会的変化によるものなのですが、 巡礼や学生、貧しい聖職者などが異国の町で倒れ、 不運にも死去したとき、これらの人々を埋葬して、 霊をとむらうための組織がこの頃から全ヨーロッパに生まれたのです。

中世の人びとにとっては、死後の救済はわが身の彼岸での復活を意味していましたから、今日の私たちには想像もつかないほど 大きな意味をもっていたのです。

死後の救済を確かなものにするためには、本人自身が善行を積まなければなりませんが、貧しい者に喜捨することが善行の第一とされていたのです。

この兄弟団に入るには、僅かの入会金か祭壇で用いる蝋を出し、他に年会費を払い、さらに巡礼の世話をしたり、埋葬、 ミサなどの際に特別の金を支払わねばなりませんでした。 これらの兄弟団には裕福な人からの寄進も多く、かなりの財産をもつ法人格になっていたのです。

いうまでもなく、この兄弟団に入っても、何も物質的な利益はありません。 (阿部謹也:中世の窓から、朝日新聞社)

著者の阿部謹也は一橋大学の学長でドイツの中世の研究では第一人者です。

キリスト教がヨーロッパで貧しい人と裕福な人との間で富の再配分に貢献したのは事実で、私もドイツで機会があれば教会に付属した老人の給養施設(病院)、養老院を見て回りました。

兄弟団の中には、橋兄弟というものがあって、壊れた橋を直したり 新しい橋を架けたりしました。 キリスト教の布教にも交通の要(かなめ)の橋建設は大事だったの 橋建設の聖職者集団のリーダのことをポンティフェックス・マクシムス(橋梁技術者の長)といい 今日でもローマ教皇の正式な称号です。

高い学問知識技術をもっていた修道院が中心になって 俗人橋梁技術者集団を育て、いつしか聖職者たちは架橋から 手を引いて、一方この橋兄弟団は固い同業者意識に結ばれ 技術を外部に出さなかったため記録も残されなかったのであろう といわれています。

興味のある方は小林先生と私が共訳した 「橋の文化史、鹿島出版会」 をご覧ください。

Buddhism and Christianity part 21

釈迦とキリストの誕生日、死亡日

中国や日本の仏教では、古来、4月8日を釈迦の誕生日として祝ってきました。 この日は、「仏生会(ぶっしょうえ)」あるいは「降誕会(ごうたんえ)」「仏誕会 (ぶったんえ)」と呼ばれています。また明治になってからは、「花祭り」と呼ぶようになりました。

釈迦が入滅(死亡)された日としては、中国や日本では2月15日をあてています。 これは「涅槃会(ねはんえ)」と呼ばれています。

大事な仏教行事の日としては、もう1つ、「成道会(じょうどうえ)」があります。 成道というのは、悟りを開いて仏陀になることで、釈迦は35歳の12月8日に 仏陀になったので、この日を成道会とします。

しかし、これらの月日は中国・日本での伝承で、古い資料による伝承では、
釈迦の生誕の日は...ヴェーサーカ月(太陽暦の5月ごろ)の第8日
釈迦の成道の日は...ヴェーサーカ月の満月の日
釈迦の入滅の日は...ヴェーサーカ月の満月の日
とされています。いずれにしても、正確な月日が決められるはずがないのですから、古来の伝承に従っておければよいと思います。

キリストの生誕日は、よく知られているように、クリスマスです。

じつをいえば、初期のキリスト教徒は、キリストの死と復活の奇蹟に関心を集中していました。 だから、キリストの降誕(受肉)については、それほどの関心を持っていませんでした。

したがって、キリスト教の最大の祝日は、復活祭です。 キリストは十字架の上で死んで、3日目に復活したといわれています。それ故、 キリスト教では、キリストの「死」という側面よりも、「復活」という喜びの面が強調されます。復活祭には暗いイメージはありません。

復活祭は、イースター(Easter)といいます。この日は「移動祝日」であって、年によって日がちがいます。春分の後の最初の満月のあとの日曜日(イースター・サンデー)に祝われます。

したがって、グレゴリオ暦を採る西方教会系の諸教会では、この日は、3月22日から4月25日のあいだにくることになっています。

しかも、ややこしいことに、東方正教会系の諸教会ではユリウス暦にもとづいて その日を定めることになっていますので、年によっては5月にまでずれ込むこともあります。

したがって、東西の両教会が復活祭を同日に祝う年は少ないのです。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

かなりいいかげんな日にちの設定であるが、遠い昔のことだからしかたのないこと。 なかば伝説みたいになっている記録なので。

2月15日の「涅槃会(ねはんえ)」は法隆寺で大変寒い思いをして見学したから忘れられない。

Buddhism and Christianity part 22

自殺について

キリスト教は、自殺を最大の罪の一つとしていると、一般には言われている。 しかし、これはどうやら後世になって言われだしたことのようである。 そもそもイエス・キリストの死そのものが、ある意味での自殺と考えられる。 なぜなら、キリストは敵に殺されたのではなく(殺されたのだとしたら、キリストは受動的存在で、神の子ではなくなる)、自発的に自分の生命を差し出したのであるからである。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」(「ヨハネの第一の手紙」 第三章)ということばは、論理的には「自殺」を意味していないだろうか。

キリスト教の教会が自殺を罪悪と見るようになったのは、6世紀のころのようである。 533年のオルレアン公会議において、罪に問われた者が自殺によって身の潔白を証明したような場合、宗教的な葬儀をいっさい行わないことを決めている。 そして、30年後のブラーグ公会議においては、自殺者の葬儀をしないことが 決められた。

仏教は基本的に自殺を悪としていないようだ。

まず、仏教の開祖の釈迦であるが、釈迦もまた一種の自殺をしたと考えられる。 というのは、釈迦は仏陀である。仏陀は、ごく普通には永遠の存在と思われている。 その仏陀が亡くなったのであるから、きっと仏陀はご自分の意志で死を選ばれたのだ、と考えられる。仏典はこれを「捨寿行」と呼んでいる。

また、悟りを開いた聖者(仏陀もそのうちに含まれる)であれば、自殺をしてもよいとする考え方が、仏教にはある。というのは、人間が生きていくには、動物や植物の生命を奪わねばならない。したがって、人間が生きていること自体が業(ごう)をつくっているのである。そこで、悟りを開いた聖者であれば、よけいな業をつくらないために、自殺したほうがよいといった考え方も成立するわけである。

しかし、自殺は悟りを開いた聖者にだけ許されたことである。 一般の凡夫には、自殺はもってのほかである。なぜなら、凡夫は悟りを開いていないから、輪廻(りんね)*する。 悟りを開いた聖者は、すでに輪廻の世界から脱出(解脱:げだつ)しているから問題はないが、凡夫は輪廻して来世に生まれる。別の存在になるのである。 そうなると、この世でせっかく積んだ修行が全部パアになり、また一から修行をはじめねばならない。いや、来世において、わたしたちが再び人間に生まれる保証はどこにもない。人間に生まれることができなければ、仏教の修行もできない。

そんなわけで、わたしたち凡夫には自殺は許されない。いくら苦しくても、この世にあって修行をつづけるべきだと、仏教では教えている。

注)輪廻は仏教の重要な概念だから、ここでも簡単に復習しよう。 仏教の輪廻思想の特色は、来世ばかりでなく過去世(前世)があると信じる点にある。 キリスト教には来世(復活)はあるが、前世はない。

仏教は、生まれ変わり死に変わりして生存をつづける輪廻の世界を考える。 その輪廻の世界を「五趣ごしゅ」または「六道ろくどう」という。 「五趣」は、
  天人 − 人間 − 畜生 − 餓鬼 − 地獄
の5つの世界で、古くはこの5つの世界をわれわれが輪廻転生すると考えられていた。

のちに、大乗仏教になると、天界のうちの怒れる魔類を”阿修羅あしゅら” (または”修羅しゅら”)と呼び、天界から独立させて人間以下の存在とした。 したがって「五趣」ではなく「六道」になったのである。 すなわち
  天人 − 人間 − 修羅 − 畜生 − 餓鬼 − 地獄
が「六道」である。

Buddhism and Christianity part 23

仏教とキリスト教の結婚観

キリスト教の結婚観は、「聖書」に明らかにされています。

まず、「旧約聖書、創世記」においては、「人がひとりでいるのはよくない。 彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(第2章)と神が考えられて、女を創造されました。それで、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」(同)のです。 したがって、家と家との結婚ではなく、あくまでも一人の男性と一人の女性が結び合い、 一体となるのです。

このようにして結ばれた二人は、互いに助け合わねばなりません。助け合うために結婚したのですから、二人が別居することなど許されるはずがありません。キリスト教の正しい結婚観にもとづくかぎり、今日の日本に数多く見られる単身赴任など、もってのほかであります。また、離婚も認められません。離婚については、 「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイによる福音書、第19章) といったキリスト自身のことばがあります。キリスト教では、神が二人を結婚させたと考えているのです。ですから、人の勝手な都合によって、離婚をしてはならないのです。

さて、これに対して仏教の結婚観ですが、釈迦は妻子を捨てて出家をしています。 そこのところに、結婚に対する仏教の基本的な考え方があるのではないでしょうか。 結婚したことのないキリストが結婚を神聖化し、結婚した釈迦は結婚を破棄する道を選んだのですから、これはいささか皮肉でもあります。

もっとも、釈迦自身は出家の道を選びましたが、大乗仏教(日本の仏教は大乗仏教です) においては必ずしも出家を称賛していません。むしろ、夫婦が力を合わせて、 ともに仏道修行に励むのが理想ではないでしょうか。その点では、キリスト教の結婚観と、それほど大きな違いはないと思います。

結婚式や葬式といったものは、ほんらいは仏教・キリスト教と無関係なものなのです。 それらは、それぞれの国や民族の「習俗」であります。

ちょっと意外に思われるかもしれませんが、釈迦は仏教徒ではなく、またキリストもキリスト教徒ではありません。釈迦は、当時インドにあったバラモン教の習俗の中で育ち、バラモン教に対抗して仏教をつくりました。キリストもユダヤ教の伝統の中で育ち、ユダヤ教を改革したわけです。したがって、彼らのものの考え方の根底には バラモン教やユダヤ教があり、習俗の面では彼らは完全にバラモン教、ユダヤ教の伝統・慣習の中で生きていました。

わが国の場合も、例外ではありません。われわれ日本人の結婚式や葬式は、仏教やキリスト教が入ってくる以前から、固有の形式を持っていました。

たとえば、結婚式を考えてみますと、江戸時代の結婚式は、村の長老が仲人になって、 三々九度の盃をして、高砂や....をうたって、それで終わりです。あとは、二人がお床入りをすれば、それでいいのです。そもそも結婚なんてものは、あのお床入りに本質があるのですものね。

現在の神前結婚式の形式ができたのは、明治33(1900)年の大正天皇の結婚式のときからだそうです。そのときに、今日見えるような儀式ができあがり、一般化したのは 昭和になってからといいます。そういうわけで、ここでは現在日本で行われているキリスト教式、仏教式の結婚式の差を考えてみます。

結婚式は、キリスト教では、二人が神の前で生涯の伴侶を誓うのが目的です。これに対し 仏教の場合は、二人が夫婦となるにいたった「因縁」を仏に感謝します。そもそも、キリスト教では、男と女が結婚し、互いに助け合い、一体となってこの世を生きていくのを理想としています。つまり、結婚をすばらしいものと見ているのです。

それに対して仏教のほうでは、結婚そのものよりも、人間と人間の出会いを大事に考えているのです。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

日本人の結婚式は仏前よりも神前の結婚式の方が多いから、また別なのであろう。 かなり、習俗的ですね。 若い人の結婚式は、また演出を考えるし、一種のパフォーマンス的結婚式もありますね。

キリスト教徒でもない日本人が海外旅行の延長で教会で結婚式をあげるのは、 本人がいいのだからほおっておいていいのでしょうか。 あれを現地のまじめなキリスト教徒が眉をしかめたり、営業している教会(実は建物だけ) の関係者を非難するテレビ放映を見て、悲しくなるのは私だけでしょうか。

Buddhism and Christianity part 24

仏教とキリスト教の労働観

かつて、マックス・ウェーバーは、資本主義の精神はプロテスタンティズムに依っていると指摘した。

キリスト教ほんらいの労働観は、むしろ「労働懲罰説」ではないか。

キリスト教の母体となったユダヤ教の聖書「旧約聖書」には、古代バビロニアにいた牧畜民族の神話の影響が見られる。彼ら牧畜民族は、神様は自分が働くのが嫌いなもので、ご自分が働かないでいいように人間を創られた といった神話をもっていた。 つまり人間は神様用のロボットで、働くことは神様から人間に課された懲罰だというのである。牧畜民族の考え方からすれば、額に汗して働く肉体労働はほんらい牛や馬の家畜のすることであり、 人間にとってのふさわしい仕事は管理の仕事であるということになる。 そうした肉体労働軽視の思想がユダヤ教に流れ込み、ひいてはキリスト教にも大きな影響を与えている。

たとえば、スペイン語には”カスティガード”といったことばがある。これは「神に罰せられた人」といった意味で、糞まじめに働いている人を嘲笑して呼んだものである。 また、イギリスの文具店では、「退職おめでとう」というカードが売られている。 退職して年金生活になると、たしかに収入は少なくなる。けれども、働くことは、 イギリス人にとって刑務所に服役しているようなものである。刑務所内の生活レベルのほうがいいからといっても、やはり刑務所は刑務所である。娑婆に出たいのである。 その刑務所の退所を祝うのが、「退職おめでとう」カードだ。このようなカードが売られているということは、労働懲罰説がイギリス人のあいだに浸透していることの証明といえるだろう。

しかし、このような労働懲罰説は、だいたいにおいてカトリックの考え方であろう。 これに対してプロテスタントの方は、ドイツの社会科学者マックス・ウェーバーも指摘したように、おおむね勤勉を美徳としている。同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントとでは、その労働観にだいぶ差がある。

仏教においても、インドの初期の仏教と、中国・日本の仏教とでは、考え方に相当の差がある。

インドの初期の仏教では、出家修行者は生産から遊離していた。釈迦は、弟子たちが生産に従事することを禁じている。出家者は托鉢によって生きるべきであるとされていた。

しかし、のちに大乗仏教になると、仏教の担い手は在家信者になった。そのような在家信者には、当然、勤勉が美徳とされる。中国や日本の仏教は大乗仏教であるから、やはり勤勉の哲学が主流になっている。

けれども、仏教の教えは、なんといっても
  「少欲知足」
なのである。欲望を適度に抑制して、足るを知るこころを持て、と仏教では教えている。 その意味では、現在の日本人のエコノミック・アニマルぶりは、仏教の教えから遠く外れている。ガツガツと欲望をふくれあがらせ、馬車馬のごとくモーレツに働く姿は、 仏教でいう「餓鬼」さらながらである。これではいけない。わたしたち日本人は、 もっと「人間」らしいこころを取り戻すべきではないだろうか。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

スペイン人が労働軽視の思想の影響を受けているという指摘から、 南米の国々の生産のあがらないことを連想してしまった。 もっとも、スペイン人については、キリスト教の影響というよりは、南の暑い国で働き続けることは体にも悪く、長い昼休みをとるのも生活の知恵かもしれないので、その民族の伝統とか慣習からもくるものなのでしょう。

南方で生活するといっても香港の人々は、大変勤勉です。あれは、イギリス支配の影響かもしれない。 中国大陸の中国人は、もっとのんびりしているように思われますが。 シンガポールの中国系の人々も働き者。中国人にもいろいろあって、それをひとまとめにして、中国人とはこういうものだと考える方が無理なのかもしれない。

Buddhism and Christianity part 25

お墓のありかた

西洋人にとっての墓は、基本的には「死者の家」と理解されているようです。 ことにヘブライ人は、死後は「祖先とともに寝る」といった考えをもっていましたから、死体は家族の墓に葬るのが通常でした。

ところで、初期キリスト教の時代は、殉教者崇拝の慣習が強かったのです。キリスト教の信者たちは、殉教者の墓所において、墓棺の前で典礼(儀式)を執り行いました。 そして、のちには墓棺を地下埋葬所におさめ、その上に祭壇が置かれるようになったのです。つまり、教会の祭壇の下には殉教者の遺骨が納められているわけです。このようなところから、のちに教会が「死者の家」としてり墓所の性格をもつようになりました。

極端にいえば、キリスト教における墓は、「死者のねぐら」であります。

一方、仏教のほうでは、ほんらいのインド仏教では原則として墓をつくりません。 インド人は現在でも、死体を火葬してガンジス河などに流してしまいます。 インド人の考え方では、死者の魂は天界に昇ったのだから、この世にはなんの痕跡も残したくないというのが強いのです。お墓などは造りません。現在でも、たとえば デリーにはマハトマ・ガンディーの「墓」がありますが、あれは骨を納めたものではなく、正確にいえば記念碑です。

日本仏教においても、たとえば浄土真宗の開祖の親鸞は、「某(ソレガシ)閉眼セバ、賀茂河ニ入レテ 魚(ウホ)ニ与フベシ」と、死に臨んで言っておられます。もっとも、いくら遺言でもその通りにはできませんが、 浄土宗や浄土真宗の教えでは、死者の魂はすぐに阿弥陀仏の極楽浄土に往生しているのですから、墓など造る必要はないわけです。現に、浄土真宗の教団に属する人のうちには、 無墓の家系もあります。その他の宗派でも、それが仏教であるかぎり、墓を造る必要性はまったくないのです。

ところで、日本人の墓に対する考え方は、仏教とはまったく無関係につくられたものです。 すなわち日本人は、死者の霊が生きている者にタタリをすると考え、タタリをしないように死者の霊を祀って鎮めることを目的に墓をつくります。したがって、日本の墓は遺体や遺骨の埋納所であるばかりでなく、死者の霊を祀る場所でもあるわけです。 もっとも、日本人の墓に対する考え方もいくぶんか仏教の影響を受けて、遺体・遺骨は...墓に埋葬する、 死者の霊は...仏壇や祖霊堂で祀る、 といったふうに分離する傾向にあります。しかし、完全にそれが分離されていないのが現状だと思います。 (ひろさちや:仏教とキリスト教、新潮選書)

確かに、ヨーロッパの教会の地下には墓があった。

仏教では、成仏してしまえば、天界に行くのだから、この世に墓をつくる必要などない わけですね。エジブトのミイラと棺桶は死者が戻る場所だから残しておくべきものだけど。 仏教徒の墓はしたがって(生きているわれわれのための)死者の祈念碑ということですね。


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この著者のさらなる解説 死後界の生活(ひろさちや)


般若心経 全文と訳  この訳は、故花山勝友氏によるものです。

般若心経は古くから困ったとき日本人のお守りとして使われてきました。
あの耳なし芳一も亡霊に連れて行かれるところを、和尚さんが芳一の全身に、このお経を書いて守ってもらったのでした。(耳にだけ書くのを忘れてしまった)

般若心経 (三蔵法師玄奘訳)

かんじざいぼさつ
観自在菩薩  (観音菩薩が、)

ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時  (深遠な知恵を完成するための実践をされている時、)

ょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空 (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、)

どいっさいくやく
度一切苦厄  (すべての苦しみを取り除かれたのである。)

しゃりし
舎利子  (そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、)

しきふいくう
色不異空  (形あるものは実体がないことと同じことであり、)

くうふいしき
空不異色  (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。)

しきそくぜくう
色即是空  (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)

くうそくぜしき
空即是色  (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。)

じゅそうぎょうしき
受想行識  (残りの、心の四つの働きの場合も、)

やくぶにょぜ
亦復如是  (まったく同じことなのである。)

しゃりし
舎利子  (舎利子よ、)

ぜしょほうくうそう
是諸法空想  (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、)

ふしょうふめつ
不生不滅  (もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、)

ふくふじょう
不垢不浄  (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)

ふぞうふげん
不増不減  (増えることもなく、減ることもないのである。)

ぜこくうちゅうむしき
是故空中無色  (したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、)

むじゅそうぎょうしき
無受想行識  (感覚も念想も意志も知識もないし、)

むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意  (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、)

むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法  (形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、)

むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界  (それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。)

むむみょう
無無明  (さらに、悟りに対する無知もないし、)

やくむむみょうじん
亦無無明尽  (無知がなくなることもない、)

ないしむろうし
乃至無老死  (ということからはじまって、ついには老と死もなく)

やくむろうしじん
亦無老死尽  (老と死がなくなることもないことになる。)

むくしゅうめつどう
無苦集滅道  (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)

むちやくむとく
無知亦無得  (知ることもなければ、得ることもない。)

いむしょとくこ
以無所得故  (かくて、得ることもないのだから、)

ぼだいさった
菩提薩垂  (悟りを求めている者は、)

えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多  (知恵の完成に住する。)

こしんむけいげ
故心無圭礙  (かくて心には何のさまたげもなく、)

むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖  (さまたげがないから恐れがなく、)

おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想  (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、)

くきょうねはん
究境涅槃  (永遠にしずかな境地に安住しているのである。)

さんぜしょぶつ
三世諸仏  (過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は)

えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故  (知恵を完成することによっているので、)

とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提  (この上なき悟りを得るのである。)

こち
故知  (したがって次のように知るがよい。)

はんにゃはらみった
般若波羅蜜多  (知恵の完成こそが)

ぜだいじんしゅ
是大神呪  (偉大な真言であり、)

ぜだいみょうしゅ
是大明呪  (悟りのための真言であり、)

ぜむじょうしゅ
是無上呪  (この上なき真言であり、)

ぜむとうどうしゅ
是無等等呪  (比較するものがない真言なのである。)

のうじょいっさいく
能除一切苦  (これこそが、あらゆる苦しみを除き、)

しんじつふこ
真実不虚  (真実そのものであって虚妄ではないのである、と。)

こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪  (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。)

そくせつしゅわつ
即説呪曰  (すなわち次のような真言である。)

ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝  (往き往きて、彼岸に往き、)

はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝  (完全に彼岸に到達した者こそ、)

ぼうじ
菩提  (悟りそのものである。)

そわか
僧莎訶  (めでたし。)

はんにゃしんぎょう
般若心経  (知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。)

空海 勝海舟 小室直樹 司馬遼太郎 小林秀雄 江藤淳
新渡戸稲造(武士道)
凝然大徳(八宗綱要)

森鴎外 夏目漱石 正岡子規
江戸人物辞典
宮本武蔵(五輪書) 三島由紀夫(暁の寺)
平将門
安部清明陰陽師

井沢元彦逆説の日本史平家物語 太平記 源氏物語
枕草子
徒然草 方丈記

手塚治虫 横山光輝 少年ケニヤ
ビルマの竪琴 夕日と拳銃 高木彬光

新約聖書 旧約聖書 ニーチェ ゲーテ トーマスマン ダンテ
トルストイ
ドストエフスキー 菊と刀

話を聞かない男、地図が読めない女
金持ち父さん、貧乏とうさん

王陽明(陽明学) 朱子学の背景
殷鑑遠からず
隗よりはじめよ 奇貨おくべし 天下三分の計

ゲームの達人(シドニィ・シェルダン) Out of Africa
ハリーポッター

乃木希典 兒玉源太郎 東郷平八郎

山岡鉄舟 勝海舟 西郷隆盛 清川八郎
小栗上野介 榎本武揚 坂本竜馬
吉田松陰 佐久間象山 山田方谷 藤田東湖
桂小五郎 久坂玄瑞 高杉晋作

レオナルドダビンチアインシュタインエジソン等の天才も
ディスレクシアdyslexia?
相対性理論

岡倉天心 鈴木大拙

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News Clip

「教祖から性的被害を受けた」との訴えが相次ぐ韓国発祥の新興宗教「摂理」。
韓国人の鄭明析(チョンミョンソク)教祖(61)は韓国捜査当局から強姦(ごうかん)容疑で
国際指名手配を受けているが、所在はつかめていない。

毎日新聞 2006年8月7日

鄭明析「摂理」教祖は1962-1980: 世界基督教統一神霊協会(統一教会)の信者だった?


Memo Aug08 in Pnh

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孔子世家譜(孔子家系図)」の修訂-2008:孔子の子孫は前回より144万人増加し、200万人以上に達する。
Now, THIS is really fascinating. It's rather dazzling to see it presented this way.

I certainly thought this was enlightening. Beyond our sun ... It's a big universe.

Antares is the 15th brightest star in the sky. It is more than 1000 light years away.
Now how big are you?
And, how big are the things that will upset you today?
Or, for that matter, the things that are important?
KEEP LIFE IN PERSPECTIVE!
Have a Great Day and Worriless Life