其他の国々

タンザニア印度南アイラン台湾香港


A. Tanzania - Jottings- (2000年10月) 

1) 1985年よりは3年半のタンザニア駐在となったが、その頃のDar es Salaamはアフリカ型社会主義を続けていた為 市場に物がなく、まともなHotelもなく、又、外国人が使えるレストランもなかった。食材も外国より運び込み、自宅に発電機を取り付け、自給自足の生活をするしか一定の生活水準を維持する方法はなかった。水の確保にも努力を要した。 象牙やマコンデの木彫は屋台で並べられていたが、古着や時計との物物交換も可能だった。 生活環境は開放政策に転換後徐々によくなったが、相変わらず治安が悪く強盗等の日本人犠牲者も多く出た。

2)駐在員の子弟は International Schoolに通い、又、日本人補習校もあった。その時の子供達は何故かほぼ全員一流大学に進学した。四国よりも広い セレンゲッティやゴロンゴロと言う動物保護区があり 四輪駆動で動物を探して走り回るのは別世界の出来事の様で 野生動物の姿や景色が今でも夢の中に出てくる。 ガイドの視力2.0はあたりまえで5.0という人もいて数100メートル先の木の上
の豹(Leopard)を見つけ案内してくれた。

3)アフリカ象はインド象と違い絶対に人には懐かない。現地の人も象の集団を見ると通り過ぎるまでじっと待っている。ロッジのそばに来た象にバナナをあげようとした外国人が象の鼻の一撃で即死したとの話も聞いた。ライオンはメスの集団が狩りをしてオスはそれを横取りする。ハーレムの中心にいるオスの役割はハイエナ等をおいはらうこと以外はハーレムを他のオスより守りぬくのが仕事。サイ(Rhinoceros) やチータ(Cheetah)は探すのに苦労する。シマウマ(Zebra)やキリン(Giraffe)はどこにでもいた。 カバ(Hippopotamus)やフラミンゴ(Flamingo)はいる場所が決まっている。トムソンガゼルやジャッカルも良く見かけた。

4)ロッジで夕食をとった際、カバ肉とシマウマ肉のステーキから選ばせられ、料理が来たのでナイフとフォークを手に取った時、目の前から消えた。外部から侵入して来たマントヒヒにとられた為であることがすぐわかったが逃げられた。野外では鳥のモモ肉を口にくわえようとした時,羽のようなもので頬をたたかれ 手からモモ肉が消えた。これはコンドルに横取りされた為。鳥は目が良いと再確認。

5)現地のチェコ大使館の人と仲良くなり、チェコグラスを大量に仕入れた。それが縁でチェコ製トラックタイヤの輸入も手掛けた(300万米ドル)。 契約交渉の為プラハに出張した際、この参事官の家に招待された(当時は社会主義国だったので外国人を家に招くことは稀だった)。 彼は古董品を集めていて 手書きの独語で書かれた年代物の聖書を見せてもらった。

6)熱帯熱マラリアには駐在員の半数以上かかった。早期に薬を投与すれば治り、戦時中日本兵が南方のジャングルでかかった3日熱マラリアと違い再発することはないが、手遅れとなると死ぬ。又、近海魚を充分水洗いせずに刺身にしたものを某日本人宅で食べ、コレラにかかり水も受け付けなくなり脱水症で死にそうになった。抗生物質と点滴で一命をとりとめたが、これは“好塩菌”に対する知識が無かった為。 日本で Diving Licenceを取った時も教えてもらえなかったが、日本の近海魚もよく水で塩分を流してから刺身にする必要がある(腸炎ビブリオ)。

7)タンガニーカ湖の辺りにチンパンジーの研究者が常駐しているところがあった。京大の霊長類研究所の人も来ていたが、日本人はチンパンジーの顔を見分けられると他の外国人研究者がおどろいていた。花子とか太郎といった名をつけて生態を研究していた。中波ラジオ放送局(ODA)の引渡し式で近くに行ったことがあるが涼しくて空気の良いところだったがワニが時々現れる由。

8)キリマンジェロ山に登ることも可能で、カーター元大統領や日本の某映画俳優の親子が登頂した。現地のガイドが30−40kgの荷物を平気でかついで一緒に登ってくれるので、杖一本で登山が出来るが、高山病にかかったらすぐ下山すべき。

岩合光昭

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B. India - Jottings - (2000 年10月)

1) 印度には1984年陸上ガスパイプラインProjectの件でNew Delhiに約2週間滞在したことがある。
当時はインデラガンジー首相の時代で、このProjectに円借が付く可能性を聞きに出張前に通産省の担当官に説明に行ったが、"穴を掘って埋めるだけではそれほど技術もいらないのでは"とNegativeな反応だった。

2) New Delhi にてインド政府の大蔵次官や日本大使館の公使や参事官と面談時、Gas Pipeline には高度な技術が必要なことを力説した。 数日後に来られた中曽根首相が 記者団を前に(スピーチの原稿にはなっかので即興だったらしいが) 本件を円借案件として考えている旨の発言をされた。 翌年アフリカの駐在となったので、その後の経緯は詳しく知らないが、1984/85/86年度計550億円の円借案件として実現した。

3) 宿泊先の某一流ホテルの水割りの氷のせいでアメーバー赤痢にかかり発熱と下痢に丸2日間苦しんだが,週末にはGolfが出来る迄回復した。  暑さには慣れているが Delhi Golf Club内に孔雀や牛が歩き回ったり寝そべったりしていたのを今でも思い出す。

4) Hotelで知り合ったインド人より"昔はインドも緑茶を飲んでいたがインドから英国に船で運ぶ途中に発酵し現在の紅茶になった"という話を聞いたが,これは俗説。 緑茶は不発酵茶故、如何に高温多湿の環境下でも発酵がすすむ事は無い。 中国では今でも緑茶をよく飲んでいるが、日本の緑茶とは熱処理の方法が違い、釜炒りが多い。

5) タジマハールは、当時は外国人観光客しか見当たらず、ゆっくりと観光が出来た。
市内観光の為、オベロイホテル内の旅行会社の紹介でインド人のガイドを雇った。観光を一通り終えてから案内された宝石屋にロクな物が見当たらなかったので、もっとまともな宝石はないのか店主に聞いたところ、奥の部屋に通され、金庫から、先祖代々受け継いでいる宝石と称し、ルビー、エメラルド、サファイアを見せてもらった。色といい、透明度といい申し分なく綺麗な石だった。その当時は金回りが良く(今は貧乏)、悪い事に、アメックスのGoldCardを持っていたので、300万円ほどで衝動買いしてしまった。20年後、日本で鑑定してもらったところ、全て本物だった。エカッタエカッタ。

スバス・チャンドラ・ボース
 1897年、インド・オリッサ州の弁護士の家に生まれる。英ケンブリッジ大留学後、ガンジーの反英闘争に参加。
1938−39年、国民会議派議長。41年にインドを脱出しドイツでヒトラーと会談。43年には潜水艦を乗り継いで日本に。
東条英機政権の後押しで自由インド仮政府を樹立。インド国民軍司令官としてインパール作戦に参加した。

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C. イラン  - Jottings - (2000年10月)

1) Oil Tank Project の件で、お土産にシャブシャブ用の牛肉を4kgかかえ、テヘランに入ったのは1990年。 ブタ肉ではないので通関は問題なし。 数ヶ月後、タンク材を受注出来た。

2) Tehranのバザールでペルシャ絨毯 が日本のデパートの1/3以下の価格で売られていた。現金の持ち合わせもなく クレジットカードも持ってなかったのに,ペルシャ商人に"日本に送るの。代金は到着後送金してくれれば良い"と言われ、5枚も買ってしまった。 品質もPackingも問題はなかったが、
日本の家では使う場所も限られ、今も押入れの中に眠っている。

3) 黒海のキャビアも安く、空港で買い求め、日本でキャビア丼にして食した。

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D. 南アフリカ、レソト、スワジーランド   - Jottings - (2000年10月)

1) 南アフリカのJohannesburgには、1990年に レソト 及び スワジーランドへ行く為のTransitで、何度か入った。"ゲームの達人"という本を読んで映画も見たあとだったので、是非 Cape Townへも足をのばしたかったが、かなわなかった。南アの白人は数100年前のオランダ語がもとになっているアフリカーナと言う言語を使っていた。

2) 黒人居住区ソエトにも行ってみたが、以前 タンザニア にいたせいか、意外と大きな病院もあり、きれいな街並みだとの印象を持った。マンデラさんの大きな家も見てきた。

3) スワジーランド と レソト には水井戸の 無償援助の仕込みの為に何度か行ったが、 外国人は現地で投資している台湾人が多かった。 現地政府の大蔵次官や外務次官にも会ったが、“日本政府は南アとの経済関係を問題にするが(アパルトヘイト政策を取っていた南アとの問題)陸続きの隣の国と経済関係を断つことなど出来ない”とぼやいていた。 数年後この水井戸Projectも実現した。

4) Johannesburg よりは飛行機でも行けたが、陸路を利用したこともある。 サバンナを道路がほぼ一直線で通っていて景色がいつまでも同じな為 ウトウトしてしまう。 レソト には"夜明け前"と言う映画で見た川を渡り国境を越えた。  スワジーランドのHotel内にあったCasinoでは大負けした。

5) 日本人はJohannesburgの北にある白人居住区に住んでいて、ほとんどがプール付きの一戸建てで番犬を飼っていた。 更に北のSun CityにはCasinoがあり、素晴らしいGolf場も隣接している。 鮑のステーキが最高に美味。 PageTop

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E. 台湾 - Jottings - (2000年10月)

1. 台湾には学生時代に 中国語の勉強の為? 何度か貧乏旅行をした(1968-69)。
その際“日本語家庭”育ちの台湾人の 流しのオジサンより教わったシリトリ歌をまだ覚えている (戦前の時代背景が垣間見える):

日本島国松の国
国を守る は兵隊さん
算術しっかり 勉強する
駿河の名所 田子の浦
浦島太郎 亀に乗る
乗るとすぐでる 汽車の旅
足袋屋の看板 大きいな
成程感心 姉妹(アネイモト)
元より強い大日本
 

そう云えば 昔 お祖父さんより教わったシリトリ歌に こんなのがあった (日露戦争):

陸軍の  及木さんが  凱旋し シジメ  メジロ  ロシヤ  ヤバ0国
クロポトキン  キン00マ  マカロウフ  フンドシ  シメタ  タカチャーボ  ボンヤーリ
 

F. 香港 - Jottings - (2000年12月)

1. 日本には“Tax Heaven対策税制”と云うのがあり、仮に香港において節税目的で会社を設立しても発行株式数の50%超を日本の会社が所有する場合はその留保所得のうち持分相当分を出資者である日本法人の所得に合算して課税される。但し,日本人であっても日本国の非居住者の持株が50%超ある場合は日本国の課税対象とはならない由。現在でも香港の法人はOffshore Incomeに対して非課税となっている。難点は会計士の費用がやたら高いこと。

2. 香港は食事や買い物が有名だが、何度も行ってると、物価も高いし、特に面白いところもないので、時間がゆるせばマカオに足をのばすことになりがち。  PageTop

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アグラ(タジマハール)、ジャイプール観光

Century Travel : Mr.Naresh 011-2332-7000

Golden Vacations : Mrs.Nandita(日本語) 98-111-12868

各ホテルからの日帰りのツアー: 全て込みで一人US$40-50程度


真実史観http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/521337/

○インドの独立の英雄、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」「ネタジ(指導者)」スバス・チャンドラ・ボースがインド人民に向けて訴えた演説。

 ・・・「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。・・・われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」は、後の自由希求独立への、合言葉となった。(1943昭和18年7月5日1万5千名のインド国民軍兵士への演説)

 
 ・・・「大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。・・・1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて「インド国内の同志への呼びかけ」「ネタジと日本人」スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著

 ・・・インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの感心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。・・・「大東亜会議」演説1943(昭和18)年11月5日

 インド独立運動の指導者(NETAJI)スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)(1897〜1945)は日本と協力してシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立し(1943)、インド国民軍を組織し米英に宣戦し、インパール作戦を日本軍と共に戦った。日本の敗戦後も、最後まで、インドの独立に命を懸けたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の取り計らいで、ソ連に亡命する途中、1945年8月18日台北で日本軍機墜落、事故死、火葬後、遺骨は日本に運ばれ東京都杉並区の蓮光寺に手厚く葬られた。享年48歳。毎年8月18日に慰霊祭がおこなわれている。

 スバス・チャンドラ・ボースのこの世で最後の言葉 1945年(昭和20)8月18日 享年48歳
 「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」

インド国会議事堂の正面にはスバス・ チャンドラ・ボース。右にはガンジー。左にはジャワハラル・ネール(初代首相)の全身像が建てられている。Chandra Bose 亜細亜独立インド

○インパール作戦(インドの独立戦争) 

 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人が流した赤心の血がインドの独立、アジアの独立をうながしたのだ。さらにこの流した赤心の血は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながしたのだ。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの反日は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言を針小棒大に報道している。

 昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。

 
○英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将

 「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。」日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ」回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。

 かっての敵将も、インド独立のために流した日本の赤心の血に、日本の本意を見たのだ。

○アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

○ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ

 日本では殆ど知られていないが、インド独立のきっかけも太平洋戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。」と述べている。

○元クルガ兵(ネパール人)の証言 我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

○卒塔婆を建てた村長 インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨を集める為、村民を総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に染まりました」イギリス軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよく分かった。

 村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆(高さ約4b)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法要していると言う。我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたら、村長は「我等の尊敬してやまない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。シンハ元村長は、「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実直である。

 この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫になっていた」と教えてくれた。家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。(平成9年6月25日号)アジアの曙光 -6-アセアンセンター代表 中島慎三郎

○ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー 激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。 この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。 このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、 そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。 コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。  「自由アジアの栄光」副題「インドミャンマー独立史」

○インド 日本に対する賠償を放棄している。

○グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

○ランボ・ラル・グプタ インド独立運動指導者

 東京裁判は21世紀になれば必ず見直される。そして第二回東京裁判が実現する。その頃にはアジアも良識を取り戻し、東京裁判で重罪を被った日本人、7人のA級戦犯は、一転して全アジアの救世主となり、神として奉られる日が来るであろう。また、そのようになるべきだ。

○S.S.ヤダフ、インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉

 戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(I N A 委員会)も日本に感謝を示すために、平成九年(1997年)インド独立五十周年に、靖国神社に感謝状を奉納しました。

 インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。

 インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。


○マンモハン・シン・インド首相演説
2006年12月14日

河野洋平衆議院議長閣下
扇千景参議院議長閣下
安倍晋三内閣総理大臣閣下

衆議院議員ならびに参議院議員の皆様
著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様
 この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。
 ご列席の皆様
 日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。
 科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、その経験から学ぶことを望みました。
 インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。
 日本の工業は、自動車や石油化学などインド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。
 1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。
 こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。
 日本を訪れるたびに、お国の発展を見て真に鼓舞され、寛大さに心を打たれます。私は、1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それは、インドの財務相として初の両国間の訪問でした。
 1991年に前例のない経済危機に対処した際、日本から送られた支援に謝意を述べるための訪日でした。古い型を打破し、グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく経済を開放し、新たな前進への道を乗り出す機会を、あの危機は我々に与えたのでした。当時、弾力性や献身といった長所、あるいは逆境にあって如何に機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとして、我々は日本に目を向けたのでした。・・・

 赤心には赤心、歴史には歴史で語りかけたこの演説は、片隅での報道であった。報道を操作し、亡国を企む、NHKや朝日などのマスコミや、団体に巣くう売国奴、教授、評論家、物書き屋、捏人。先人冒涜を裏の家業とし、表裏で金を得、反日侮日で分不相応な生活、誰の目にもよく目立つ。冒頭のように翻意前の話や、小さな欠点や落ち度だけを、全体であるかのように棒大に報道するのですぐ分かる。ブログに散見する異様な先人冒涜の輩も、糧は同じで同類だ。単なる鵜呑みの素人には、長期に渡って、あれほどしつこく、欠点探しは出来ない。心ある同胞からの内部国発は、ネチズンに数多届いている。狂惨、侮日に日本を売った売国奴は、相当数居る。単なる左翼、侮日ではない、金が動いている、輩は、金で日本を売った売国奴だ。余りにも目に余る冒涜に子孫が覚醒し、自浄回路が作動し始めたのだ。ネチズンも心ある同胞も、赤心の血を流し、同胞の琴線を鳴らし、覚醒を促した先人の、真の子孫だ、愚かではない。捏造主義「独裁国家、共産(狂惨)国家、捏造報道屋、捏造扇動家」は、必滅する。国づくりや物づくりは、事実のみが成せる業、人間の小細工、捏造ごときで成せるものではない、古今の世の習いだ。

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